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#ずいずい随筆⑮:未来が見える強さと、カッサンドラの嘆き

 僕は最近悩んでいることがある。
 正確に言えば、悩みというよりは嘆きに近い。

 僕は腫瘍内科医だ。
 簡単に言えば、がんを専門とする内科医である。
 こう言うと時に
「じゃあ、私もがんになったときには西先生に診てもらおうかな」
 なんて言われることがあるが、実際にはそんなに簡単なことではない。

 僕が専門とするがんは、「消化器がん」だ。つまり、胃がんや大腸がん、膵がんや胆のうがんなど、消化をするのに関係している臓器全般のがんということになる。
 世の中には、ほぼ全てのがんを診る腫瘍内科医と、僕のように特定の専門をもつ腫瘍内科医がいる。
 それでもときに、婦人科や耳鼻科の先生から手伝いを頼まれて、僕が卵巣がんや口腔がんの抗がん剤治療を行うことはある。どの専門領域をもっている腫瘍内科医でも、各領域の基本的な勉強はしているし、使用する抗がん剤も似ているため、安全な治療管理を行うことは難しいことではない。でもそれは、婦人科や耳鼻科の先生が主治医としているからできることである。

 では、僕らが専門と専門外を明確に分けるのは何故か。

 それは
「未来が見えるか否か」
 というところに尽きる。

 僕らにはその疾患をもつ患者たちの未来が見えている。それが専門に近ければ近いほど、また終末期に近づけば近づくほど、その未来は色濃く見えるようになっていく。
 例えば僕が、婦人科がん治療の基本的知識を持っているからといって、婦人科がんの治療に主治医として取り組まないのは、その未来を見る解像度が明らかに薄いからである。
 いま投与している抗がん剤のことはわかる。それによってどんな副作用が出るのか、それをどう管理したらいいのか、ということはわかる。つまり、「今」のことはわかる。でも、もし万が一この抗がん剤が効かなくなって、次の治療をどうするのか?という判断が必要になったとき、その「未来」を思うと映像は一気にぼやける。さらにその次の治療、そしてその次・・・なんてことまで想像すると、もうそこにあるのは闇である。僕はさすがに、闇に向かって患者と一緒に歩むことは怖くてできない。足がすくむ。
 それに対して、自分が専門とする病なら、どれだけ先も見据えることができる。この治療の先にはあの治療があって、その先にはまたこんな選択肢が用意できて、そしてこの時期にはこんな症状が出てくるからこう対処して、そして最期には・・・っていうところまで見据えることができる。だから、そこから逆算しての「今すべきこと」というアドバイスができる。その解像度は、明らかに「今」しか見えない疾患の患者と対峙するときとは異なる。そもそも「未来から逆算しての今」なんて見方ができないし。
 未来が見える、ということが専門であることの強さである。

 ただ。
 未来が見えるということの苦しみもまたそこにあるということを最近知った。

 未来を見通す力は、その臨床に長く携わっているとどんどん強くなっていく。いつごろに、何が起きる、ということが肌感覚でわかってくる。だからこそ僕らは「今のうちにこういうことをしておいたほうがいい」「今から考えておいてほしいことがある」といったことを患者や家族に伝える。
 でも、その「専門家としてのおせっかい」は往々にして聞き入れられない。僕が警告していた未来が本当に来てから「先生の言ったとおりだった」「本当はこんなこともしたかったのに」と言われる。特別な患者や家族の話ではない。
 僕が専門家として、良かれと思って告げる内容は概ね「悪い未来が来た場合に備えてほしい」という内容である。それに対して患者や家族は「もっと希望をもって生きたい」と考える。それ自体は悪いことではない。でも、本当は「悪い未来に備えながら、希望ある未来に期待する」って両方できるはず・・・じゃないのかな。

 こんなことを繰り返しているうちに、最近ちょっと疲れてきたように思う。未来が見えるほうがつらくなってきた。
 これだったら、もっと若いころ、未来は何も見えなくても患者や家族と試行錯誤しながら手探りで進んでいた時のほうが良かったんじゃないか。いや、患者や家族からしたらどっちが良かったか知れないけど。

 ギリシャ神話に出てくる、カッサンドラという王女を知っているだろうか。

 太陽神アポロンの求愛を受け入れて予言の力を得るも、その力で「アポロンがいずれ自分を捨てる」という未来を見たためにその場を逃れ、行方をくらませてしまった王女。アポロンは悔しがったが、ギリシャ神話では一度授けた能力は取り消しできないというのがルール。よってアポロンは「カッサンドラの予言を誰も信じないようにする」という呪いを上書きした。
 結果的に、カッサンドラはトロイの木馬で有名なトロイア戦争でも、敵の策略や戦争を悪化させる未来を数々予言して王族や将軍たちに伝えるも、誰もその予言を信じることなく、戦争に負け、カッサンドラも悲劇的な最期を迎える・・・という話である。

 初めてこのカッサンドラの話を読んだとき、「どうして多くの人はその予言を信じないのか」という気持ちになったけれども、今ではこの寓話は「誰の心の中にも起こりうるもの」を表しているのだろうな、と感じるようになった。
 カッサンドラの予言する悲劇的な未来、その警告を聞いてさえいれば避けられた未来。でも多くの人は「そんなことが起こるはずがない。未来には希望がある」と信じて疑わない。そのときのカッサンドラの嘆きが、いま少しだけわかる。

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