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ドラマ『アライブ』を観ての感想っぽくないつぶやき。

腫瘍内科医が主人公のドラマが始まった。
フジテレビ系、木曜10時からの『アライブ』だ。

腫瘍内科医がドラマになるのは初めてのこと。
これは気合入れて見て、感想や解説を書くぞ!って鼻息荒かったんだけど、よく考えたら
「そういえばドラマの解説とかしたことねーわー」
ということに気づき、さらに当日夜には既に感想や見どころが書かれた記事や動画がたくさんアップされてて、
「だったら僕が書く必要ねーかー」
と一気にクールダウンしてしまった。
なので、僕は僕なりの、このドラマ1話目を見て思ったことを書いてみる。

看護師はどこに?

まず、『アライブ』そのものについては、僕は純粋に面白いと思った。
医療監修に、高名な腫瘍内科医の先生方が名を連ねているだけあって、内容もツッコミどころは少ないし、安心して見ていられる(ゼロとは言わないが)。
そして患者役をしている俳優さんたちの演技、そして演出が凄まじい。僕らが普段診ている患者さんや背景そのまま、というリアルさで、確かに多くの当事者の方々が途中で見続けられなくなったのもわかる。
そして主人公の松下奈緒さんが、外科医と対比される腫瘍内科医としての役割とその限界、そしてひとりの人間としての弱さも抱えながら、患者の前では医師としての役割を演じるという描写は、これもまたリアルな医師像を表現してるといえるだろう。

ただ、とても気になったのは
「看護師が一切出てこない」
という点だ。
これは意図的としか思えないのだが、このドラマでは今のところ、看護師を含め他のメディカルスタッフの存在が徹底的に排除されている。
本来であれば、抗がん剤を投与して管理するのは看護師の役目だし、石野真子さんを病院屋上に連れて行って・・・という場面も看護師っぽい。少なくとも看護師が同行してもよい場面だ。最後の、「4つ目の『あ』ですね」と言うのも看護師に言わせてもよかったのでは。清原翔さんの役どころを、研修医ではなく男性看護師にして、松下さんとパートナーという設定にするのも面白かったのではと思う。
「早剥(常位胎盤早期剝離)」の処置後の場面で、松下さんと木村佳乃さんに話しかけた人は助産師では?という意見もあったが、あれも話しぶりからは産婦人科医だろうと僕は思った。
カンファレンスの場面でも看護師の姿はほとんど出てこないし、当然セリフもない(唯一、アナフィラキシーショックの時に短いセリフが聞こえたくらいか)。

僕はこのドラマが腫瘍内科医にフォーカスを当てたい、ということを意図しているんだろう、と読んだ。
だとしたら、少なくともメインキャストの中にメディカルスタッフが入ると画もストーリーもごちゃごちゃする。そういう演出なんだろうな、というのが思うところだ。だとしたら、それはドラマの表現なのだから、そういうドラマとして楽しめばいい。

ものすごく昭和っぽい医者たち

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ただ、現実に松下さんのような腫瘍内科医がいたとしたら、それは今や未来の医療体系からは不十分だろうなというのは感じる。
というより、それは過去の多くの医療ドラマに言えることだが、「医者」というのがどこか万能感をもつ存在として描かれることが多い。
しかし、図にも提示したように、少なくともがん診療の現場では腫瘍内科医が一人で頑張る(Aのパターン)というのは、美しき自己犠牲だとしても、能力として不十分であるということは論文で指摘されている。がんを取り巻く課題は、医療だけにとどまらず、人生観や人間関係、金銭問題や仕事のこと、社会における役割喪失や、宗教的課題まで多岐におよんでいるからだ。腫瘍内科は緩和ケアと統合され、お互いの不足部分を補いながら必要に応じて専門家にアウトソーシングしていくモデル(Cのパターン)が理想的ということが示され、世界各国がその統合されたモデルをどうやって作っていくか、ということをこの10年くらいずっと試行錯誤しているのだ。
ここでいう「緩和ケア」も、当然のように緩和ケア医だけを指すわけではない。どちらかといえば看護師が中心となって全体をマネジメントし、必要に応じて医師や、各種専門家にコンサルタントするというスタイルが良いだろう、ということは海外だけではなく日本でも示されてきている。
カリスマ的医師が登場して全てを器用にこなし、病気が解決すれば全員ハッピー!みたいな物語は、昭和時代は楽しめた。でも、もうそれから30年以上たったのだ。僕はそろそろ、令和時代のその先の物語が見たいなと思っている。

患者に寄り添うのは簡単なことではない

ドラマの中で、「腫瘍内科医は患者の人生に寄り添う仕事」のようなセリフがあった。
もちろん、病気にしか興味がなく、患者を突き放す医者よりは、寄り添う気持ちをもっている医者の方が、ありがたいことは確かだ。
しかし一方で「寄り添う」内容を勘違いし、医師一人だけでそれが完結できると思っているとそれは危険である。寄り添うふりをして、結果的に寄り添えてないのでは、不幸になるのは患者だ。
そしてそれは患者側にも言えることで、ひとりの医師が全てを解決してくれるわけではないことを知っておいた方がいい。
いまの医療は、ひとりのカリスマ的医師が全てをこなすシステムから、医師を含めた様々な資源ネットワークの中で、患者も生活する個人として参加しながら療養を行っていくシステムに変わってきている。僕はこれを「モノシステムからマルチシステムへ」と呼んでいる。

カリスマ的医師はいずれ、AIに代替されるかもしれない。幡野さんやヤンデル先生がよくおっしゃっているように、「スマホが自分のことを一番わかってくれている、だから治療方針もスマホと決める」時代が来るかもしれない。
そういう時代に、僕ら医療者は何をできるかを考えた時、それは「不完全な個人が集合した開かれたネットワーク」への接続なんじゃないかと思うのである。
スマホがいくら賢くなって、個人が生まれた時からの全データを保有し、それを元にした「最適な治療」を導き出せるようになったとしても、僕はそれは「単一の、答えのひとつ」でしかないと思っている。
僕ら人間は不完全だ。目の前にいる患者のこともほんの一部分しか知らない。でも、僕らはその不完全な空白を確かめ合って、お互いの人生を計りあっているんじゃないかと思うのである。僕はあなたのことを一部しか知らない、でも僕はこれまで会ってきたたくさんの人の「一部」を知っている。看護師は、また「看護」という視点で切り取った、たくさんの人の「一部」を知っている。それは多様な、世界への開かれたネットワークであり、そこに接続できる患者は、AIが導く単一の答えではなく、たくさんの選択肢の中から自分の人生を選ぶことができる。
そのためには僕らの側も、カリスマ的医師が頂点に立つような「閉じたネットワーク」はもう古くて、できる限り多様性を内包した開かれたネットワークに接続し続ける必要がある。そのネットワークをどれだけ豊かにできるかが、これからの医療のカギだと僕は思っている。

AIが出した単一の答えを選びたい、という方がいるならそれは否定しない。だけど、自分の全てを知っているからといって、自分にとって最適な答えを出してくれるとは限らない。
僕自身は、自分が見ることができないネットワークの向こう側とつながりながら、自分の人生をみんなと決めていきたいなと思う。そういう世界に、自分を委ねていきたい。


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