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大学とはなんだ~幡野さんへの返歌

毎週月曜日は、幡野広志さんの人生相談コーナーの日。
毎回、幡野さんのキレのある回答を、昼ご飯を食べながら読むのが楽しみだ。
さて、今回の相談テーマは「好きなことを勉強し、好きなことを遊べ」だった。

真面目に大学に通って院にまで行った学生が、「真面目に大学に行くより、少しサボったり留年したりするほうが価値のある大学生活だと思う」という発言を目にして、6年間の学生生活が周りにどう思われているのかが怖くて、誇りに思うことができなくなってしまった、という悩みである。
真面目に頑張ってきたことは、間違っていたのか?
価値ある大学生活とは何か?
ということを学生さんは問いかける。

幡野さんの詳しい回答は本文を読んでもらうとして、僕は幡野さんの、

かならずしも学歴が全てではないなぁともおもいます。でもこういうのは学歴がある人がいったほうが説得力あるし、そもそも写真家って学歴とは関係のない職業なだけです。

という部分に、ちょっとおせっかいして返歌を返してみたいと思う。
僕が幡野さんに張り合って、学生さんに回答するなんていうのはおこがましいから、あくまでも幡野さんというメインパーソナリティと対談するようなイメージだ。

学歴を大事に思うなら大事にすればいい

医者という職業も決してスタンダードではないから、これから書くことは僕だけではなく僕が会ってきた方々の経験も踏まえてのことなんだけど、僕は「学歴ってそんなに関係ないけど、勉強はしたほうがいいよね」と思っている人だ。
もちろん、医者になるためには医学部に行かないとならないから、その意味では学歴は必要だ。でも、どの大学に行ったらいい臨床医になれるかというのは話が別。日本一を謳われる大学の医学部出ても、患者をモノのように扱う本当にとんでもない医者もいるし、逆に偏差値が一番低い大学の卒業でも、勉強熱心で患者思いの素晴らしい医者もいる。僕は両方とも会ったことがあるからこれはウソじゃない。

学歴にも意味がある、というときに僕が思いつくのは「信用」だ。その大学を出ている、という時点である一定の信用を社会的に得ることができる、というのがあることは事実だ。
僕が生まれて、大学も行った北海道では、北大に入りさえすれば色々と将来が安泰になるというところは確かにあった。幼いころから「トップは北大だ」ということを教え込まれ、まちの要職は北大卒の方々が並び、北大医学部に合格することが地元新聞に取り上げられる。通った塾の名前も「北大学力増進会」だ。
そして、医師が医局に所属すると、若いころは色々な地方病院を回ることになるのだが、
「北大から医者になれば特急が止まる駅、○○大なら急行が止まる駅、××大は鈍行が止まる駅でしか働けない」
と、先輩に言われたことがある。つまり、北大卒なら交通や生活の便のいい都市部の病院に勤務できるけど、他の大学出身なら田舎に行かされるぞ、という意味だ。
そういった文化は、いろんな意味で気持ち悪かった。僕が北海道を出ることにした理由のひとつだ。
そして関東では逆に、北大は地方大のひとつに過ぎない。僕にとっては清々することだが、中央の大学を卒業していないことで、できなくなることが少なからずあることも事実だ。
その「できなくなること」が自分にとってすごく大事だったり、学歴という下駄あるなしの状態で競争がスタートする場に身を置くことは嫌だな、と思うのなら学歴を大切にした方がいいかもしれない。僕はそういう場から「一抜けた」した人間だ。

人生はどう生きても後悔する

そのうえで、僕が「真面目に大学に行くより、少しサボったり留年したりするほうが価値のある大学生活だと思う」という発言に対して意見するとしたら、僕は「そんなことないと思うよ」と答える。
僕自身は大学の時、決して真面目な学生とは言えなかった。
バスケットボールばかりして、授業はよくサボったし、留年こそしなかったけどテストで0点をとったりもした。バスケットボール部から得られた経験はかけがえのないもので、僕はその6年間はとても充実していたと思うけど、その一方で「もっと医学に関連したことを勉強しておけばよかった」とも思う。

そもそも、当たり前の話だけど大学という場は「自ら学ぶための場」だ。高校までのように与えられて勉強する場ではない。いまちょうど受験シーズンだけど、学問を深めたいという自分の中での理由がないなら大学なんて行くべきではないし、就職に有利だから、みたいな理由で適当に学部を選ぶべきじゃない。「自ら学ぶ」意欲が出ない学問を学ばせられるのは本当に苦痛だし、それが原因で大学に行けなくなってしまった人を僕は何人も知っている。でも、それに早々に気づいて大学をやめてしまった方が、時間の無駄にならなくてよかったのかもしれない。無駄な時間を過ごすような大学に行くな、ということだ。
もう少し言えば、それでも自分の意志で大学に行くのなら何だっていいと思う。就職に有利、という強い思い(?)を胸に抱いて4年間大学行くぞ!とか、ただ単に大学生になって遊ぶぞ!でも。ただ、周囲の大人(特に親)がそれらをそそのかしたり、価値があるように見せたりして誘導するのにはあまり賛同できない。学ぶのも、遊ぶのも、本人なんだから。

知り合いの臨床心理士さんが教えてくれたことだが、どう生きたって人は後悔するのだそう。そして後悔することは決して悪いことではない、当たり前のこと。僕みたいに大学時代に勉強しなくても後悔するし、じゃあ逆に勉強ばかりしていたら後悔しなかったかと言われれば、やっぱり後悔しただろうと思う。現に、「勉強すべきだった」という後悔と同時に「もっと遊んでおけばよかった」という後悔も、僕の中に一緒にある。
でも、人生の時間には限りがあるし、人生を2回生きることはできない。どう生きたって「もっと遊びたかった」「もっと勉強しておけばよかった」と思うのだから、過去のあるままを肯定し、未来に何をしたいかを僕は考えている。

学びは遊び

勉強をすることが遊ぶことと分けられないこともある。遊ぶように学び、学びながら遊ぶ。この学生さんも、学ぶことが遊ぶように好きなんじゃないかな?どうだろう。勉強を嫌いにならなければ、遊びと学びが一緒にできるようになるんじゃないかなと僕は思っている。
僕は最近、幡野さんに影響されてカメラを趣味で始めたんだけど、それも遊びだし学び。たくさんの本を買い込んで、写真の何たるかを学ぶのはいま一番楽しい時間だ。
もう一つ言えば、医師として患者に接しているときも学びがたくさんある。その難しい病態や、人の心の機微に悩み、考えたり文献を調べたその先に「これだ!」という気づきが得られた時。その面白さは何にも代えがたい。それを「遊び」という言葉で表現するのは語弊があるかもだけど、学ぶことって楽しくてやめられない、と僕は思う。

勉強を遊びの対極に位置付けて、面白くなくしているのって大人の責任じゃないのかな。学ぶことって本来は楽しいことなのに、受験のための道具にしたり、子供のランク付けに使ったりするから、子供たちはどんどん学びから遠くなっていく。子供のころに勉強を嫌いにしてしまうと、年をとってから勉強しない大人がたくさんできあがるんじゃないの?ということをよく心配している。
「よく学び、よく遊べ」って言うけど「よく学び、よく学べ」でいいんじゃないかな。お題目的には。
人生そのものが遊びであり学びなんだから。

(写真撮影:幡野広志)


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