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4:スイスに行けない

 宿題になっていた、吉田ユカの病名「複雑性PTSD」。初診の時に紹介状に書かれていたものの、どんな症状や病態なのかわからなかったのだった。PTSDなら知っている。日本語では「心的外傷後ストレス障害」と呼ばれ、1995年に発生した神戸の大震災のあとに大きな問題となったものだ。その定義は、国際疾病分類であるICD‐11によると

非常に脅迫的または恐ろしいイベントの暴露後に発症する可能性のある精神的障害。
主に、
①鮮明な記憶の再現、フラッシュバック、悪夢などによる外傷的イベントの再体験
②イベントについての思考や記憶の回避
③周囲への過度な警戒や様々な刺激に対する驚嘆反応
といった症状が少なくとも数週間続き、社会活動に障害を引き起こす。


 とされている。それに対し、複雑性PTSDというのは、ICD‐11が2018年6月に改訂された際に新たに記載された新しい概念であり、その定義は、

逃げ出すことが困難な状況における長期的・反復的な心的外傷、例えば拷問や奴隷体験、ジェノサイド、そして長期にわたる家庭内暴力や幼少期の身体的・性的虐待などによるPTSD。PTSDの診断基準を満たすことに加え、
①感情制御の問題
②トラウマに関連する恥・罪悪感などの感情を伴う、自身への無価値観
③他者との関係性の維持や親しくなることの困難
を伴う。

 とされている。つまり、ユカは長年にわたる身体的・精神的虐待の経験によって複雑性PTSDとなったということだ。

 複雑性PTSDの症状のひとつとして「解離」と呼ばれるものがあることが目に留まった。解離とは、心理的に苦痛なことから逃れようとするあまりに、つらかった過去のことの記憶が抜け落ちたり、時系列がバラバラになったり、まるで他人事のようにそれを話したりするようになる症状だという。
虐待といったトラウマ体験の記憶についても、本人の中でストーリーの文脈が分断されていて、時間がつながっていかないことがある。1個1個のことは覚えているが、あたかも時間軸を無秩序に並べられたインスタグラムの写真みたいな状態なのだという。
 また、細部は覚えていても、全体のバックグラウンドとか、文脈というものがわからない。記憶の抜け落ちもあるので、人生史みたいな年表を書いてみて、というと、書けない。小学生だったところがごっそり抜けるといったことも実際にはあるという。たしかに、初診の時の彼女の話し方を振り返ると、それに当てはまるものがあるような気がした。
 そして「自分自身や、周囲の人、そして社会全体に対する信頼が損なわれる」という記載もあった。彼女が抱える医療トラウマも、それに起因するものが少なからずあったのかもしれない。
 他の人であれば、それほど気にしない、もしくは忘れてしまうような出来事だとしても、彼女の場合はそれによって一気にその世界が信じられなくなる。そんな傷をたくさんに抱えながら、彼女はこれまで生きてきたのかもしれない。

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 そして迎えた2回目の外来日。
 診察室に現れた吉田ユカは元気だった。
 前回の外来では固かった笑顔も少しゆるみ、むしろ前回よりも体調が良さそうに見えた。
「お変わりはないですか?」
「ええ、体調はそれなりに。少しずつ食べられなくなってきていますけど。ただ、ちょっと残念なことがあって」
 と、ユカは少し翳った表情をみせた。
「実は、スイスのライフサークルに受け入れを断られてしまったんです」
「えっ」
 僕は心底驚いた。宮下洋一の本を読む限り、ユカの状況でライフサークルが受け入れを拒否するとは思えなかったからだ。
「どうして、ダメと言われたのですか?」
「精神科の受診歴があるから、受け入れが難しい……と言われてしまって。あと、ライフサークルのエリカ・プライシック先生が裁判を抱えているみたいで。それの忙しさもあって、今は受け入れできないとのことでした。スイスにもうひとつある自殺幇助団体・ディグニタスに再度申し込むという手もあるけど、ディグニタスはライフサークルよりも審査が厳しいからもっと難しいと」
 たしかに、精神疾患の患者に対する安楽死の是非というのは議論があるところだ。
 しかし、ユカは精神科受診歴が過去にあったというだけで、今回のエントリーの理由はがんによるもの。精神疾患による安楽死を望んでいるわけではない。

「まあ、仕方がないです。なので、先生これからよろしくお願いします」

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