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戦時下の仏印留学生〜九大・京大に学び農学博士号を取得したルオン・ディン・クア

  ハノイ市ドンダー区ダン・ヴァン・グー通りの、ファム・ゴック・タック通りを挟んで反対側にルオン・ディン・クア通りはある。

 ベトナムの高名な農学者、ルオン・ディン・クアもアジア太平洋戦争下の日本に留学し、日本語と農学を学んだ一人である。ただし、日本と仏印の交換留学生だったダン・ヴァン・グーと異なり、彼は「私費」で日本を訪れている。

 クアは1920年、仏領コーチシナのソクチャン省のカトリック教の裕福な家に生まれたが、12歳にして政敵の暗殺により父を失い、母は後追い自殺した。残されたクア兄弟は親戚の手で育てらた。

 サイゴンのラ・サール・タベールド校(現チャン・ダイ・ギア高校)を卒業したクアは親戚に援助を受けて香港に留学、1年間英語を学び、ラ・サール・カレッジで医学を学ぶも、1939年には上海に移り、セント・ジョーンズ大学にて経済学を学んだ。

 日中戦争が激しさを増し、セント・ジョーンズ大学の教授言語が英語から中国語にかわったのを期にクアは日本への留学を決め、1942年、東京の国際学友会にて日本語を学ぶようになった。

 国際学友会では永鳥愛子先生が日本語を教えた。彼女はクアたち留学生から休み時間にベトナム語を学び、会話ばかりか文章まで綴れるようになったという。そのベトナム語は日本語教授にも役にたったようだ。

 クアは当初、日本で医学を学ぶつもりだったが、世界的にみて当時の日本で進んだ学問は農学であると知り、農学を学ぶことにした。

 1944年、クアは九州大学農学部の第三年次に編入学し、稲の世界的権威でもあった盛永俊太郎教授に学んだ。

 1945年、戦争が終了すると、九大農学部作物学教室で研究補助員をつとめていた中村信子氏と結婚。国際学友会からの奨学金は得られなくなったが、翻訳や通訳のアルバイトで糊口をしのぎ、1946年には九大を卒業した。

 同年、京都大学の農学部の木原均教授を訪ね、奨学金も得て博士課程に入学。木原均教授は小麦の細胞遺伝学の研究で知られていた。クアはその指導の下、細胞遺伝について研究を続けた。

 ホーチミン率いるベトミンがベトナム独立を宣言したものの、フランスはこれを認めず、軍事的に介入を開始、ホーチミンがフランスに対する抵抗戦争を呼びかけると、若きクアはベトナムへ帰国し革命運動へ参加するとこころはやるが、仲間の留学生たちから日本に残って学問を納め、その知識をもって国に貢献すべしとの勧めを受けて、勉学に励んだ。

 1951年、クアは「稲属の人為倍数体」の研究で京大農学部の博士号を取得する。京都大学で94番目の農学の学位取得で、外国人の博士号獲得とあって毎日をはじめとする日本の新聞各紙で報道された。

 1937年、BlaksleeとAveryによって発表されたコルヒチンによる植物の染色体の倍数体を誘発する方法にもとづき、当時ありとあらゆる植物に対して同処理法が試されて、育成された倍数体をもとに実用的な優良品種の作成も進められた。クアはそれをイネ属に試し、成果をあげたのである。

 アメリカやフィリピンに渡り、研究を続けることを周りから勧められたものの、ベトナム独立のたたかいに寄与する夢は捨てられず、1952年香港を経由し、革命なった中国を経て北ベトナムへ家族4人で入国しようと企てる。

 国会議員のカザミ氏(風見章か=第二次近衛内閣の司法相。公職追放後、1952年に国会議員に。日本社会党左派に属し日中国交回復を提唱)が日本の華僑協会に頼んで中国への入国に必要な手続きを終え、船で香港へ渡った。

 しかし手続きが不十分であったのか、クアたちは中国へは入国できず、香港の滞在期限も近づき、所持金もなくなった。サイゴンの友人に頼んで送金を受け、空路南ベトナムへと降り立つ。

 南ベトナム政府は彼の帰国を歓迎し、クアに政府機関で働くことを勧めるが、クアの望むところではなかった。だが結局、ダカオにある妹の家に身をよせながら、農林省の農業研究所の一主任として働いた。

 1954年、ジュネーブ協定によってフランスと北ベトナムとの停戦が決まり、協定から300日間は北と南のそれぞれの兵士や移住希望者は移動することが可能になった。

 クアは北ベトナムに渡り、ホーチミン率いる政府と国に奉仕しようと1954年、海水浴にでかけるふりをして、家族全員で海路北ベトナムに渡った。

 北から南に移住した人々は北ベトナム政府による宗教迫害を恐れたカトリック教徒らだった。南から北へ移住した人々はベトミン軍の幹部・兵士、北ベトナム政府のシンパである学生、知識人らであった。その数14〜15万人ともいわれている。

 北部に移住したクア一家はハノイに暮らし、クア自身はハノイ農林学院の副学長におさまる。クア一家はさらに3人の子どもに恵まれ、7人家族となった。

 1959年にはクアの研究成果がイネの改良品種「ノンギエップ(農業)1号」が生まれた。ベトナム南部の従来品種に日本の品種を掛け合わせたものだった。

 クアはイネの新品種を世に送り出すのみならず、サツマイモ、パパイヤ、メロン、ヨウサイ、種なしスイカなどの新品種を開発した。

 1962年に妻の信子は請われて「ベトナムの声放送局」にて1963年からはじまる日本語放送のアナウンサーとなる。

 1963年にクアはハノイ農業大学(現ベトナム農業学院)で教鞭をとる。1967年には労働英雄称号を贈られる。

 クアは食糧作物研究所の所長となってハイフン省(現ハイズオン省)に転勤となり、日増しに強まる米国の北爆から逃れて、子どもたちと共に疎開しつつ食糧増産の研究と現場指導にあたった。

 ハノイにはひとり信子が残って、アナウンサーの仕事を続けた。空襲警報があるたびに防空壕にもぐり難を逃れながらの放送であった。

 1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落。その「解放」のニュースを信子は感動を持って日本語で読み上げた。

 その年の末、クアは自宅で吐き気を覚えてベッドに倒れこむと、そのまま息を引き取った。死因は心筋梗塞であった。享年55歳。まだ早すぎる、突然の死であった。

新妻東一 2019/05/07

<参考>
Phan Boi Chau and Three Waves of Dong Du in Japan/Nguyen Van Khanh
KỶ NIỆM ĐỜI THƯỜNG VỀ NHÀ KHOA HỌC LƯƠNG ĐỊNH CỦA/Phan Quang
Chuyện ít biết về nhà khoa học Lương Định Của/Lê Xuân Kỳ
ハノイから吹く風 サイゴン陥落を伝えた日本女性/中村信子
戦前 ・戦中の国際学友会における日本語教育事業/河路由佳
1943 年・仏印から日本への最後のベトナム人私費留学生とベトナム独立運動/河路由佳
京都大学百年史


 

 

 

 

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