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 秋の一日、小六息子Kと加波山に登った。このご時世、遠足も修学旅行もない六年生。せめて四連休に父と二人遠足を、と企画。
 茨城県南には小学生と、普段運動をしていない父親とに、ほどいい高さの山が豊富にある。丁度一年と一日前、去年の9月21日には当時小五だった双子息子KとTと三人で宝篋山(標高461m)に登ったっけ。
 今回は小六双子のうちKと二人。彼に一年前に買った登山靴はもう小さくて履けないという…。たった一回しか履けなかったか…もっと山に登るつもりだったが…本を書いていたので仕方が無い。息子のここ一年での成長ぶりを嬉しく思うこととしよう…。

加波山といえば

 さて加波山といえば加波山事件だ。明治17年(1884年)、今から136年前に起きた事件。自由民権運動のうち過激に走った自由党急進派16名(栃木・茨城・福島)が栃木県令兼福島県令であった三島通庸および政府高官の暗殺を計画したとして官憲が迫ったため、加波山に拠って蜂起したもの。

 と書くと、単なる過激派か、で片づけられそうだが、二つの県知事を兼ねたというこの三島なる人物は薩摩閥に連なる人で相当強権的だったらしく、特に自由党および農民に対する弾圧、県議会無視が著しいひとだったらしい。加波山事件の2年前にはやはりその弾圧に耐えかねた福島の人たちが反抗した福島事件も起きている。加波山に拠った人たちも遂に耐えかねて決起、ということだろうか。この件、まだ勉強不足でこれ以上は書けない。今後さらに学んでみたい。

 さて近代に起きた加波山事件が一番に思い浮かんでしまうこの山だが、古くから山伏たちが修行をする修験道の霊場として歴史有る名山だという。山伏との関連でもあろう、天狗の山としても知られていたとも言う。
 筑波山、加波山、足尾山の連峰は常陸三山と呼ばれ、茨城の山岳信仰の中心地だった。古くは「神母山」「神場山」「神庭山」の字を当てられていたとも。いずれも格調高い名前ですばらしいなぁ。経緯は知らねど加波山よりもいいと思うけれどなぁ。第三者の勝手な感想で恐縮だが。

 そんな加波山信仰は幅広く、そして長く、続いてきたらしい。関東一円にその信仰の範囲は広く、それは筑波山を凌ぐというのだ。実際、昨日もう一人の小六息子Tと行った結城市(茨城県と栃木県の県境)

でも加波山信仰の跡を見た。結城家十六代政勝を祀った御影堂境内にこんな石碑を見かけたのだ。

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三枝祇(さえなづみ)神社 加波山本宮 登拝記念と読める。この時は既に翌日加波山に登る予定にしていたため、何となく気になって撮影したが、今思うと、加波山信仰の幅広さ・深さを感じる。結城市の御影堂から加波山山頂まで直線距離で約25km、関東一円に広がっていたということから言えば結城市はほとんど地元だ。加波山を登拝したことを誇りに思い石碑まで建ててしまう信仰の深さを思う。

加波山に向かう

 さて本来であれば麓から登ってこそ山、なのだとは思うが、超初心者の父子二人は、まずは「車で行ける限りまでは車で行く」方針。軟弱ではあるが、まずは山の頂上を楽しむことから馴染みたい。

 というわけで車で旧真壁町(現桜川市真壁)から入り、きのこ山、足尾山を通り、加波山もほど近い「自由之楷」石碑まで行く計画をしていた。ところが朝から計画崩壊。きのこ山にも行き着かぬ、上曽峠まで行ったところで「この先5.5kmで崩落のため通行止め」と…。

 急遽計画変更。加波山の東側まで抜けて北上、北から入ることとした。予定よりもだいぶドライヴ時間が長くなったが、たまには息子との二人ドライヴも悪くない。こちらの道も「通行止め 行き止まり」などの表示があったりして悩んだり(結局問題なし。上曽峠まで抜けられないことを言っていたらしい)、標識がない分岐で迷ったりと様々に苦労したがその辺は省こう。

 12時38分、山に登るには遅すぎる時刻に「加波山神社→」という看板に辿り着き、車はここまでと判断、車を置いてようやく登り始めた。

燕山(つばくろやま)登頂

 30分ほど歩き加波山神社に到着。加波山三枝祇神社親宮拝殿・中宮拝殿と思われるが何故か立入禁止状態になっている。こちらから登ると頂上まですぐらしいのだが(そして後ほどそれは確かめられた…)、こちらからのアプローチは諦めざるをえなかった。
 そこで神社方面とは別方面に歩いてみたが、どうもおかしい。これは加波山ではなく、その北の燕山(つばくろやま)に向かってしまっているっぽい。気付いた時はもう頂上近かったため、行ってしまうこととした。無事登頂。標高701m。眺望も望めない頂ではあったが何だか達成感。

 とはいえ、加波山へは仕切り直しだ…。車まで戻ったところでもう14時。更に奥へと車で進む。晋明神社、砕石場を過ぎる。有ったよ、有りました、「自由の楷」の石のオブジェ。ここが当初目指していた出発点だったのだ。だいぶ遠回りしたがようやくスタートだ。この時既に14時20分。しかし行くぞ。

加波山に登る

 登り始めるといきなりの急な山道。しかし何とか頑張る。20~30分も歩いたろうか。道もだいぶなだらかに感じはじめたあたりに旗立石があった。加波山事件の際、自由党の志士達はここに「自由之魁」の旗を翩翻(へんぽん)と靡かせたという。これは水戸徳川家第九代藩主斉昭が漢詩『弘道館に梅花を賞す』に記した「天下之魁」を意識したものに相違なかろう。
 しかし、たった16人でここに立て籠もっても、幕末に筑波山で決起した天狗党よりもずーっと人数も少なく、どうにもなるものでもなかっただろうな…。よほど追い詰められてのことであったのだろうし、志に燃えた若者たちだったのだろうな、と往時を偲んだ。

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 この旗立石もそうだが、登れば登るほど巨大な岩が増えてくる。最も目立つのが三尊岩。実に巨大。

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 そして山頂に到着。加波山本宮本殿だ。このあたりが一番巨岩が多く、本殿があるにふさわしい神秘的な雰囲気だ。

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 ここに三角点もある。しかしあまりに山頂と判るものが少なく、三角点に気付いたのも帰路。当初は「頂上はどこだろうね?」と父子で相談しつつ、先に進んだ。

 すると加波山天中宮に到達。ここが一番眺めが良かった!

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 なおここには加波山事件七十年記念「自由之魁」石碑が建てられている。

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「民自党総裁 吉田茂」が代表者として書かれており、昭和二十四年と記されている。1949年か。この民自党(正式名称:民主自由党)というのも、1948年3月~50年3月のたった丸2年しか存在しなかった党なので、その意味でも珍しい石碑。なお、この民自党総裁として吉田茂は第二次吉田内閣、第三次吉田内閣を組閣している。
 しかし加波山事件の自由党志士にとって敵であった三島通庸の二女は牧野伸顕(大久保利通の子)の夫人であり、その娘が吉田茂の奥さんなのだから、吉田茂からすれば三島通庸は奥さんの祖父なわけだ。なんだかねじれた関係だ。

 更に先に進むと、たばこ神社(この辺がタバコが名産だからということ)、加波山神社親宮本殿があった。そして更に先に進むと何だか道が下りになっていて、その先には立入禁止で入れなかった加波山三枝祇神社親宮拝殿・中宮拝殿と思しき建物が見下ろせた…。こっちから来ればすぐ頂上だったんだな…何故立入禁止だったのだろう…拝殿なのに…。

 とはいえ、あまりすぐに山頂でもさすがに味気ない。息子と二人頑張って登った山道は楽しかったよな、と思い直したことであった。

霊峰加波山を登って

 筑波山もそうだが、頂上あたりに巨大な一枚岩が多数あるのがやはり驚き。自然の力が偉大であることを思い知らされるとともに、やはり不思議の感が否めない。この辺が信仰の対象となった原因なのだろう。ここ加波山にも、社や祠が多数ある。車でだいぶ近くまで登った私たちでもそう思ったのだから、麓から登った方にすればもっと多数の社や祠を見ていることだろう。

 昨日の結城市では寺を巡ったが打って変わって今日は神社ばかりを廻った。しかしそんな加波山で一つだけ仏教を思わせるものがあった。これは多分不動明王ではないだろうか…。なんだか素朴で、でも手を合わせたくなる厳かさがある像であった。

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 帰路、車でまた加波山の東側を通った我々、ふと見上げれば今日さんざん迷った末にようやく辿り着いた出発点「自由の楷」オブジェ近くにあった風車2基が見える。その右側に白く見えるのは途中で見た砕石場だ。発破をかける時はサイレンを鳴らしますよ、と書いてあった。その上に見える山頂まで行ったのだ、僕らは。頑張ったね~、僕たちは、と息子Kと語らう。息子と二人、よい思い出を作れた楽しい秋の一日であった。

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参考文献:茨城県の山/酒井國光 (2016年 山と渓谷社)

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