Q&Aセッション:意識・関係性・コミュニティ作り

2020年10月25日 プラムヴィレッジ・ロウアーハムレットQ&Aセッション:意識・関係性・コミュニティ作り

Q.末那識について質問したいと思います。シスターホイニェムの話を先週聞いて、末那識についてもっと知りたいと好奇心を持ちました。末那識とは自我の働きだとシスターホイニェムはお話していました。末那識というのは「自分はこういう人間だ」「これは私のものだ」「他と切り離された自分」だと執着することかと思います。インタービーイングのプラクティスをしたいと思うのですが、どうやって執着を手放すことができるのでしょうか?特に自分自身の喜びや幸せなどにも囚われずにそれを超えていくプラクティスがどうやったらできるでしょうか?

A.(ブラザーファップリン)質問ありがとうございます。私たちはみんなそのプラクティスをしているのだと思います。みんなで見つめていくのは良いことだと思います。あなたが末那識の働きを描いていたのはその通りで、末那識は名詞というよりも動詞でありアクションだと思います。それは傾向なのです。プラクティスを通してその傾向を和らげることができます。取り除いたり闘ったりするよりも、和らげることが大切です。その傾向は様々なレベルで見られます。例えば、感情にもあって、良い感情は続いてほしいと思い、嫌な感情はすぐになくなってほしいと思うのです。しかし、それらの感情が起こった時にもっと近くで見てみる必要があります。不快な感覚があったらそれをもっと見つめます。不快だと感じるけれど自分は本当にその感情を見つめることができているのだろうか、と考えます。例えば赤ちゃんは野菜が嫌いだとしても、それが本当に身体に悪いものだからというのではありません。苦しみや不快な感情もそのようなものです。まずは自分の傾向に気がつくことが大事です。それを見つめてみると不快な感情の奥には、別のものがあることもあります。誰かが嫌なことを言ったり、何か嫌なものが机の上にあったり、嫌なことやトラウマを思い出したり、と私たちには色々な嫌なことが起こります。マインドフルの種を育んで呼び出すことができると、嫌な感覚を感じてそれを避けたいととっさに思っても、そこに留まり「それと本当に出会っているのだろうか?」と見つめなおすことができます。相手の行動に対して思っていることやストーリーや想定しているから反応してしまっている可能性もあって、そこから悲しみや絶望を味わうことがあります。でも、そのようなことを感じた時にはその不快な感覚と一緒に座ってお茶を飲んで歓迎するようにしています。「ようこそ、一緒にここに来てください。あなたのことが知りたいんだ。あなたのためのスペースを、これまでここに用意していなくてごめんね。」と語り掛けます。それはあなたの中に古くからいる友人のはずです。自分自身のストーリーをどこかに置いておいて、自分自身の身体で感じます。どこで感じるのか、胸なのか、お腹なのか、喉なのか。名前をつけることもせずにまず認識します。末那識の働きは非常に素早いものです。「好きだ」「好きじゃない」とすぐに決めます。疑問符を付けて、それを一度置いておきます。ほうれん草を好きか嫌いかを決めないでおくように。それが嫌いか好きかを決めないでただそこにあることを許します。最初耐えられないとか、人生を脅かすと感じていることでも、深く見つめてみたらそれほど悪くないことが分かるかもしれません。自分が思っていたものと全然違うことかもしれません。怖れと思っていたのが孤独だと分かるかもしれません。単なる感覚でそれほど強い感情ではないかもしれません。「それは私なのか私のものなのか?」考えてみて下さい。「私の感情」「私の経験」「私の人生」というけれど、本当に私のものなのでしょうか。「これは私のものだ」と強く握ろうとすると、幸せは逃げて行ってしまいます。瞑想するときに本当の自由と喜びを経験するためには、それをそのまま味わって手放します。樹々を秋に見た時には色が非常に美しいですが、それを所有する必要はありません。美しさを味わうためには誰のものである必要もないのです。そのようにアプローチして末那識の働きから来る自分の習慣を見直すことができます。マインドフルであったら、その感覚が起こった時に、立ち止まって「それは本当に確かなの?」と考え直すことができます。そのことによって執着しないようになります。トータルリラクゼーションで何も考えずに身体をゆるめることも助けになってくれると思います。

(シスタートンカン)私たちはみんなプラクティショナーとしてこの質問をしたらいいと思います。人生をかけた質問です。私もこのプラクティスをしています。このための基本的なプラクティスを紹介します。まずは顕在意識から始めます。アプローチしやすいところから取り組みます。質問では2つの部分があったかと思いますネガティブな種への執着についてとポジティブな種を育む方法です。深く見つめるためにははっきりと自分の意識の中に何があるのかを認識することが大切です。タイが私たちの意識にあるものを「本当の名前で呼ぶ」と言ったことです。顕在意識と五識(から働きかけます。6つの感覚を守ることが私たちのプラクティスです。顕在意識は庭師です。様々な状況を庭師として整えます。何を育てるのか、良い種はどれなのか、どの種を植えるのか決めます。私たちはそれによりもっと自分自身を理解することができます。個人としてそして仲間とプラクティスします。私たちはサンガと共にプラクティスできるので幸運です。ブラザーファップリンが紹介してくれたのは、私たちの庭を整える庭仕事です。プラクティスをするうちにだんだん上手くなっていきます。そして、私たちの蔵識を信頼することが大切です。ある時、好奇心を持って庭に植えた種をすぐに芽が出たか確認するために外に出して、芽が出ていなかったので埋めて、また何日かしたら掘り起こして、としていたら中々芽が出まませんでした。私たちの蔵識も同じことです。育っていくためには時間がかかります。蔵識への信頼が必要です。雨が降ったり太陽の光を浴びたり。忍耐がなくて、せっかちで、サンガに変容していく力があることを信じられないと習慣の力がやってきて困難と苦しみを私たちにもたらします。末那識を変容させるためには、顕在意識と五識から始めます。それらはつながっていて、具体的に見えるもの感じられるものから始めます。ネガティブな思考を止めることができたら自分で分かるように、まずは感じられるところから始めます。幸運を祈っています。

Q.親しい人で何年も深刻なうつ病に苦しんでいる人がいます。その人のために何ができるか知りたいです。その人が自殺をしてしまうのではないかと恐れています。自分のできることとできないことを知りたいです。その人のためにどうやってそばにいたらいいでしょうか。その人がいてくれて私は幸運だと思っていますので、その人を助ける方法を知りたいです。

A.(シスターエリザベス)命とはとても貴重なものです。でも、時としてその感覚を失ってしまいます。人生で何かが起こって苦しみに囚われて人生の美しさと生きる意味を失い「なぜ今ここで生き続けているのだろうか」と考え絶望し、鬱になってしまいます。私のお話をしたいと思います。タイが言ってくれたのは「唯一の答えは愛だ」ということです。私の母にも毎朝鬱になるような傾向がありましたのであなたの話は心にふれました。すべてのものには条件があります。その人にそのような状況をもたらしている条件は何でしょうか?その人の絶望を続けさせている条件は何でしょうか?条件がすべて揃わないとそれは現れず、条件がすべて揃った時に現れます。一つでも揃わなければそれは現れません。友人にその状況をもたらしているのはどんな条件か見つめて下さい。何によって栄養を与えられているのか見つめてください。すべてのものは食べ物がなければ生き残ることはできません。私自身の話をすると私は生きることへの自信を失っていたことがありました。ここに来てサンガに助けられながらプラクティスとして深く見つめました。なぜそれが起こっているのか、何によってその種に水やりをしているのか。私が見ているもの、耳にするもの、匂いを感じているもの、味わうもの、感じる事、考えていることの何に影響されているのだろうかと。外側から内側への6つの門です。注意深く見てその人や自分を守る必要があります。悲しいニュースや、悲しいテレビ、悲しい音楽だろうか、それを見つめます。同じ道を歩く仲間と一緒にプラクティスをして手放します。そして家族から受け継いでいる種もあります。家族の中にある種も見つめます。家族から鬱の傾向が引き継がれていることもあります。祖先は私たちの細胞の一つ一つにあります。深く見つめることで理解して、世代をつないでいく鎖を断ち切れるのは私達なのです。私達には苦しみを止めるための方法があるからです。4つの精進を彼女に紹介することができます。苦しみがそこにある時、苦しみのケアをします。苦しみが出てきたら理解と愛により和らげることができます。抑圧したり、拒否したり、無視したりしないでください。愛で何があるかを見つめてください。「これは私の苦しみだ」と。末那識は私たちの一部です。理解と愛が末那識を変えてくれます。苦しみをケアできるとだんだん阿頼耶識に降りていきます。そして阿頼耶識の中で小さくなって眠るようになります。意識の中で貯めているとそれがどんどん大きくなります。ケアすると下に降りていって眠ります。阿頼耶識の中には多くの心の形成物があります。精進してプラクティスするということは「これは自分の中にあることを知っている」と分かった時に、自分の中に十分な強さがあってふさわしい時ならば、タイファップリンが言ったように招いてふれます。もし自分の習慣としてそのことを考えてしまうならそれにはふれないようにします。強さが十分にある時にはタイファップリンが言ったようプラクティスします。でも、くせで小さい子供がかさぶたをはがして血をまた出すように傷にふれることがあります。3つ目の精進はマインドフルネスで幸せの種にふれます。苦しい時にも幸せの条件は十分に自分の中にあるのです。幸せであることに気がつきます。それを大事にして保つようにします。そうすると意識の中の幸せが育まれます。薔薇の花が美しく咲くように。4つ目は阿頼耶識の中には眠っている幸せの種があります。たくさんの幸せな記憶があります。たとえ忘れていたとしてもそこにあるのです。苦しみがやって来た時には阿頼耶識の中に眠っている幸せにふれてバランスを取ります。タイは「CDをかえる」と表現しました。阿頼耶識に良いメッセージを送ってもらって幸せはここにあるのだと思い出します。幸せを感じるためには身体をリラックスさせることが必要です。目から涙を流していたとしてもそれでも幸せを感じることができます。愛と、ケアを優しさによって。その苦しみの外に出るためにはたくさんの忍耐が必要です。多くの慈悲が必要です。種が育つ前に土を掘り返したら種は育ちません。強くなるための根がだんだん育ってきても最初はまだ脆いかもしれません。忍耐が必要です。ブッダが言った最初の四聖諦は人生には苦しみがあるということでした。自分が苦しんでいることを見つめて、それを適切に扱えばそれが止まって、良くなる道があります。そのことを友人に伝えることができます。最後に大地に触れる瞑想のプラクティスもお勧めします。ブッダは教えてくれました、細胞を開いて大地に触れた時、大地に苦しみを受け取ってくれるということを。大地は何も拒否しません。立ち上がる前に私たちが苦しんでいる世界にある美しさも見て下さい。花や美味しい果物など。あなたが彼女と一緒にプラクティスすることができれば彼女も変容していくでしょう。

Q.私の傾向として鮮明な夢に囚われて身体が痺れます。朝目が覚めた時にぼんやりして、そのまま夢に囚われて一日ぼーっとしていることがあります。どうやったら朝自分自身のことを思い出すことができるでしょうか?

A.(ブラザーファップアオ)日々の中で何かに出会って、それが夢の中で思い出されることがあります。まずは何を日々の中で身体に取り入れているのか見つめる必要があると思います。何を見て、何を聞いて、何を考えているのか。それが意図しなくても自分の蔵識に染みこんでいることがあります。それが自分の身体と心に滋養を与えてくれているのか確かめます。私も夢を見て、朝起きた時に夢のことを考えています。そして、自分が読んだものや見たものを見つめなおします。そうすることによって、自分が見たニュースや考えたことを見つめなおし、何が夢に不快感を与えていたのか、なぜよく眠れなかったのか理解します。私のプラクティスをしていて、多くの良い条件があるので、自分自身の感情を埋めるためにインターネットを見ずに済んでいます。時にはインターネットを見ることもありますが、気づきと共に見て、自分自身を埋める必要がないこと、エンターテイメントがなくても大丈夫なことに気がつきます。さらに瞑想をして、自分の身体と意識をスキャンして、生きるための十分な条件と環境があり、優しく素敵な人々が周りにいることを認識します。私たちは人間で愛とケアが必要です。時として私の夢では誰かに追われていたり、動けなかったりしますが、その夢から目覚めると自分が動けることに気がつきます。その夢についてもう心配しなくていいというのは幸せなことです。そして手放すプラクティスをします。私の部屋にはスペースがあって、自分の部屋を楽しむことができます。勉強したり、仕事をする場所も別にしています。そうでないと何か仕事をしてしまったりするので。夢というのは自分を深く見つめる機会です。自分はなぜその夢を見たのか。何がその夢を起こしているのか。それがもっと自分を疲れさせたりさせているのか。そして私は毎朝目が覚めたらガーターを読むようにしています。自分の目の前に美しい新しい一日が広がっているのだと思い出すために。良い条件が十分にあって、プラクティスできる幸せ。素晴らしい仲間がいること。そのことに気がつくと不健康な種を育てるものを取り入れないことの助けになります。

Q.(パートナーとの)関係の中で信頼が失われた時にビギニングアニューをすることは可能なのでしょうか?

A.(ブラザーファップアオ)すべてのことは可能です。それは自分がやりたいと思うのかどうかの問題です。自我が私たちのコミュニケーションをブロックしてしまうことがあります。男性には特に難しいことなのですが、自我を置いておいて自分自身の欠点を相手に向かって表現する必要があります。相手は愛とケアを必要としています。それぞれの人には自我があって、自分を守ろうとします。でも、謙虚さのプラクティスをして、愛と感謝を表現することができれば、修復することは可能なのです。心からプラクティスをします。相手に許してもらうためにやるのではありません。愛とケアを伝えるためです。そして和解することができるように。自我を置いておいて、愛とケアを相手と分かち合います。そしてその時の状況にもよります。その人を外に誘って自然の中で歩くことが必要かもしれません。最初はただ、その人のためにそこにいて、お茶を飲んだり時間を過ごすのが良いでしょう。最初から話す必要はありません。どのように相手を聞くかということも大事です。苛立たずに、相手の話を聞きます。態度で示すことです。相手の話を聞きながら不快な感情を持たずに、タイが言っていたように、愛を持って話深く聴きます。私たちがどうあるか、ということが何を言うかということよりも大事です。言葉を選びますが、実際にはどのように話すかのということによって自分が伝えたいことを伝えられないこともあります。関係を修復すること、それは可能ですが、大事なことはあなたがそれをできるかどうか、ということです。

(ブラザーファップリン)信頼というのはとても貴重なもので、その貴重さは失うまで気がつきません。自分が何かをやって信頼を失うこともあるし、相手が何かをやって信頼ができなくなることもあります。信頼というのは貴重なもので、相手が何かをして信頼を失ってしまった場合、広い視点で見る必要があります。安全だと感じられないかもしれません。何かを言えば傷ついてしまうと思ってしまうので話せなくなりますしビギニングアニューもできません。視点を広げて、安全をもう一度作り出す方法を見直す必要があります。自分自身の鎧を脱ぐ必要がありますが、信頼関係が崩れてしまった時にはそれは難しくなります。自分が傷つかないようにしようと、むしろ鎧を着ようとしてしまうものなので。自分自身を無防備に感じてしまいますから。私たちの真の安全とは何か見直す必要があります。安全で強さを感じる思うためには何が必要なのか。何を拠り所としたらいいのか。私たちがつながっているより大きなものを見つめます。私たちは切り離されていません。地球上の真の平和につながりたいという深い願いにつながることができたら、それが本当に必要な基盤が分かり、その平和を何とか築こうとします。信頼をとは地球上の平和だからです。信頼を再構築することが自分にとって義務なのだと分かります。相手の過ちを受け入れ、自分の弱さを受け入れます。相手にとっても学ぶ機会が必要なのです。でも、相手の行ったことに傷ついて安全だと感じることができなくなり、そこを切り離したいと感じるかもしれません。もう十分だ、と感じてそれ以上続けたくないと感じてしまいます。「もう無理だ」と感じている自分がいるとしたら、そんな自分も抱きしめる必要があります。安全だと感じられない自分を抱きしめます。そして大きな拠り所を見つけるのことが自分を整えることも大事です。大地に触れる瞑想はその一つです。パワフルなプラクティスです。自分自身とビギニングアニューをするだけでなく、祖先や友人や先生から助けてもらいます。もし私たちの心が大地のようであれば、慈悲の強さを得ることができて、自分が安全だと感じることができるようになります。ただ現実的になる必要はありますし、もちろん限界はあります。自分自身を状況の被害者にしないことも大切です。自分自身が圧倒されて慈悲を感じられないなら止めます。そして、当事者二人でビギニングアニューをするのは難しいことがあります。お互いの歴史があり、お互いのどのボタンを押したら相手を攻撃できるのか知っています。そのような時には2人の和解のプロセスをガイドしてくれる人が必要です。2人だけだとお花に水をあげているつもりで、相手にナイフを刺していることもあります。「これには感謝しているんだけどでも…」と言って本当は水をあげていないこともあります。それは本当にお花?ということも。「昔はこうだったけど変わってくれてありがとう…」と言っていても本当にはそれを意味していないこともあります。その関係が非常に難しくなっていたら他の人の助けを借りて下さい。拠り所を見つけて心を開いて、広い視野で見て下さい。時間が必要なこともあります。悲しすぎる時にはできません。死ぬ直前に後悔を口にする人もいます。ただ、プラクティショナーとして死ぬまで待つ必要はありません。瞑想で深く見つめる必要があります。少なくとも、あなたがここにいることはあなたの深い願いを表わしています。真の強さと安全を築いてください。大地に触れる瞑想も助けてくれるでしょうし、友達が必要かもしれません。数回のセッションが必要かもしれません。まずは話を聞くことです。最初に必要なのは話を聞くことだけです。「あなたの話を聞きたいんだ。あなたを十分に理解できていないと思う。あなたのことをもっと理解したいんだ」という話で一回を終える。相手が話したいと思える状況を整えます。相手が話してから、次の時に自分の話を聞いてもらう、など。私にはこのプラクティスに対する信頼があります。今まで関係性を壊した人とも信頼を取り戻すのを経験してきました。関係性を修復するのはもしかしたら一生かかることかもしれません。でも、その機会が与えられたことを幸運だと私は思っています。

Q.(オンラインでの質問)サンガを築いていくためにそれが必要だとは思っているのですが抵抗があって難しいと思っています。どうしたら良いでしょうか?オンラインの時代にローカルサンガは必要ですか?サンガの中には好きになれない人がいる時にはどうしたらいいでしょうか?サンガの中には頑張る人と頑張らない人、変容している人とそうでない人がいます。どうしたらいいでしょうか?

A. (シスターエリザベス)サンガを作るのは難しいことですよね。私たちが笑っているのは私達もまたそれを経験していて良く知っているからです。笑うのはからかうためではなく、私達もその経験をしているからです。私たちは人間で、それはとても美しいことです。「困難なことが起こった時に、サンガを離れない事」という戒律があります。サンガというのはすでに使われて汚れた箸のようなものだとタイは言いました。お湯の中に入れて石鹸を使って、二つの手で柔らかくしてきれいにします。サンガではこのような困難を避けることができません。そして私たちが出会えるものの中で最も美しいものでもあります。私たちは受け入れて、愛と理解と慈悲のプラクティスをしようとします。それがダルマなのです。プラクティスをするのはすべてのものは永続しないので変化していきます。頑張ってプラクティスしても前に進まないこともあるし、大きく前に進むこともありますし、理由も分からず後ろに進むこともあります。そういうものです。でもだんだんと進んで、プラクティスに馴染んできます。タイの側にいて、ある夕方タイの小屋にいました。他の2人のシスターとマッサージをするためにタイを訪れていました。シンクを見てみるとボールがあって、カップがありました。そして中にはお米がたくさんついたスプーンありました。私の家ではそういうことはしませんでした。スプーンを2本使って汚れを取って終わりです。なぜタイがお湯の中でお米がたくさんついたスプーンを置いていったのか不思議でした。私はそれが何か分からず何もせずに考えていました。そして師匠の愛と理解にふれてたくさんの涙が出ました。私たちはみんなお米のくっついたスプーンなのです。お米の付いたスプーンへの一番の対処法はお湯の中に入れることです。たくさんのお湯の中に入れれば自然とお米が離れていきます。比較などを手放すのです。タイに直接教わった一番大切な教えです。そしてタイのところに行った時には「あなたはダルマティーチャーになりなさい。教えはすでに授けられたのですから」とタイは言いました。愛が唯一の答えなのです。

(シスタートンカン)私達も同じような経験をしています。プラムヴィレッジサンガには同じような問題があります。特別に加えることはないのですが、基本的なプラクティスにそれぞれが帰ってください。困難な状況にあった時、お互いにビギニングアニューをすることが難しい時、自分の中でプラクティスをします。ビギニングアニューを自分の中でします。解決しない状況でお互いにビギニングアニューが難しい時は自分の中でまずはプラクティスします。サンガで何かが起こった時にはまずは自分です。サンガで何かが起こった時に不快なことを私が感じた時は、それを抱きしめています。もっと理解をしてはっきり見えた時にしようと。でも、自分の中にまず何かがあるのです。自分たちが和解できるかどうかは自分自身によるのです。自分の安定と状況と自分自身を理解する力です。相手をよく見たら相手がなぜそのようかが分かりますし、自分自身が道のりのどこにいるのかも見えてきます。自分は道のりのどこにいるかどうかを尋ねます。他の人に光を当てる前に自分に当てます。今は半月がありますが、昨日月の光を感じました。時として光を当てたら相手がはっきりと見えるかもしれません。でも、自分には光を当てないことがあります。そして自分はサンガの中で上手くいっていると信じている。でも、何かが上手くいっていない時は自分に光を当ててください。答えは愛とコミットメントです。諦めないこと。プラクティショナーとして、もう一度始めることで目が開きます。新しい目で再開して他の人をインスパイアしながらプラクティスすることが大事です。自分自身でプラクティスの興味と願いを持ち続けたらサンガ作りの道は続いていきます。プラクティスへの関心とプラクティスを持ちサンガを作ってくれてありがとうございます。

(ブラザーファップリン)対面のサンガを作る必要がありますか、という問いに対して「はい」と言いたいです。人間の存在が大切です。物理的に会うことが大切です。ここで今直接会えるということは貴重なことです。テクノロジーは素晴らしいですが、誰かの目を見て、場を分かち合い、共に食事し、存在を感じることの完全に代わりになりません。将来のリトリートはオンラインと対面のハイブリッドになるかもしれません。今やっているように。対面のリトリートをやりながら物理的に来れない人のためにオンラインも同時に提供することもできます。

相手は自分と違っていて好きになれないかもしれません。好きなものや趣味が全く違っていて「何この人!?この人はなにしているの?」と私も思っていました。プラクティショナーとは自分のようでなければならないのだと思っていました。価値化や大事にしているものや政治的な指向を共有するべきだと。でも、ダルマの素晴らしいところは自分とは全く違う人間をも引きつけるということです。ダルマがなければ一緒にいない人とも一緒にいることができます。先ほどお話したように地球上に平和を築くというミッションがあって、もっと美しい社会を作ろうと思ったらより多くの人が必要です。もしサンガが自分のような人間、もしくは自分たちのような人間しかひきつけないとしたら、それは悲劇です。ごく少数の人としかできないのならそれは失敗が保証されているようなものです。地球上に平和を築こうと思ったら誰とでもやる必要があるのです。まったく自分とは違う人を惹きつけるタイとタイの教えに感謝するんです。それは素晴らしいことです。彼らから学び、最初の「嫌だな」という感覚を超えていきます。それがサンガの素晴らしさです。時間がかかることもあります。自分の反応に気づいていきます。「何で相手はこういうことをするんだ!」と思った時に自分の反応に気がついて自分について学びます。それは祖先から与えられたものかもしれませんし、自分の習慣かもしれません。それを手放すことができれば心は成長しより多くを抱きしめられます。ですから自分が上手くいかない人がサンガにいてくれることに感謝したらいいのです。私たちのプラクティスにとって良い条件があるということです。

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