"オタク"はしぶとく生きている ~オタクに巣食う選民思想の正体~

【以下、偏見や誹謗中傷を含む表現が含まれております。あくまで偏見が偏見であり誹謗中傷が誹謗中傷であることを述べるために記載したものであり、偏見や誹謗中傷を助長するわけではありませんが、ご一読の際には留意していただけると助かります。また、偏見や誹謗中傷の対象者の方には必要のためとはいえ記載することになり大変申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。】

はじめに

 先日、オタク論をまとめてUPした。

 しかし、どうも反響がない・・・というのは私の文才の至らなさにあるし、反響がありすぎて炎上してしまうのも困るのでそこまで反響なくても構わない。でも振り返ってみると、反響がないというのは表層的な悩みであり、その背景に何かもやっとしたものがあるような気がしていた。そのもやっとしたものの要因として、自分のオタク論には以下が欠けていたような気がしてならない。

(1) 選民主義を訴えるオタクの根底にあるもの
(2) 「ウルトラマンセブン」がオタクから必要以上に毛嫌いされる現象
(3) ベテランオタクに対して中堅以下のオタクがにわか呼ばわりする現象

 しかし、ツイッターのフォロワーさんから教えていただいた、岡田斗司夫氏の演説動画

【オタク・イズ・デッド】「オタクは死にました」言葉を涙で詰まらせ語る伝説の講演。【フルテロップ】【岡田斗司夫/切り抜き】

を見て、(1)~(3)が一挙に解明できたので、説明させていただく。
 また、2006年の本演説は「オタク・イズ・デッド」と称しているが、令和になっても私の定義する種のオタクはもちろん生きているし、岡田斗司夫氏の定義するオタクも死んでなんかいないどころかしぶとく生きているという気さえしている。その理由についても説明させていただく。

選民主義に立脚した"オタク"

 演説「オタク・イズ・デッド」や、岡田斗司夫氏の著書『オタクはすでに死んでいる』(新潮社)

によると、オタクの経緯は以下である:

 アニメ・ゲーム・漫画他を嗜好する人々が中森明夫氏により「おたく」と定義され、80年代までひっそりと楽しんでいた
→80年代末の連続幼女誘拐殺人事件の犯人がアニメや特撮番組のビデオを所有していたことから「おたく」への偏見が強まる
→岡田斗司夫氏は「おたく」の社会的地位を取り戻そうと活動を開始。以下2点を提示し「オタク」を鼓舞しつつ偏見から守った(らしい)。
・周りに流されてではなく、自分の意志で趣味を決めることができる強い精神力を持ち、その分野に関する知識を並以上持っているオタクは一般人より優れた人種である
・したがってオタクを名乗り一般人よりも優秀だと主張するなら、貴族主義に則りその分野に関する知識を常日頃から勉強しなければならない

 このように私がオタクとして独自に活動していき独自のオタク論を考えていった路線とは別に、貴族主義に立脚した強いオタク像が標榜され、このオタク像を共有したオタクたちが徒党を組んでオタクの社会的地位を取り戻した(らしい)のである。

不可解な現象の解明

 冒頭で軽く触れた3点の不可解な現象も、この貴族主義に立脚したオタクという観点からすべて説明ができることがわかった。

(1) 選民主義を訴えるオタクの根底にあるもの
 先のオタク論にて記載したが、仕事や学業などに努力しているBRICs諸国の若者に対抗しようと「私は選ばれた人間である」と何の根拠もない自信を持ったり、オタクが自分たちの趣味の間でカーストを作ったりするような選民思想的行為に違和感を抱いていた。オタクなのに努力という民主的な要素を否定して多種多様性を自分から捨てにいったり、カーストの下同士と定義づけられたオタク同士でカースト作ったりして何が楽しいかとか思っていた。
 しかしこれらの話も「強いオタク」という観点を用いると説明できる。「私は選ばれた人間である」については「オタクは一般人よりも、努力という誰でもできる手段を使う若者よりも優秀だ。」と考えているのではないかと推測している。また、オタク同士でのカーストについては、「自分たちはオタクは一般人の上にいる、だからオタクの間でもカーストの上を決めるべきだ」という思想に立脚しているのではないかと推測している。
 とはいえ知識量については生きてきた年数からして圧倒的に不利な若年層オタクもなぜか選民思想に走っている人を見かける。おそらく彼らとしてはオタクとしての知識量では高齢者に勝つのは難しいとしても、デジタルコンテンツ作成技術といった高齢者よりも優位な点があるため、それらの優位な点をオタクの評価指標としてカーストを形成させようとする動きがあるように思っている。

(2) 「ウルトラマンセブン」がオタクから必要以上に毛嫌いされる現象
 「ウルトラセブン」のことをウルトラマンA以降のウルトラマンと同様に「ウルトラマンセブン」と呼称すると、やたら腹を立てる特撮オタクをよく見かける。5年前にウルトラマンのスペシウム光線のことを挑発のためわざと「スペなんとか光線」と言った人がいて、そういう挑発に対して腹を立てるのは当たり前である。しかし、一般人が何も知らなかったりオタクがちょっと言い間違えたりして「ウルトラマンセブン」と言うと、言われた側の特撮オタクは必要以上に憤慨していて、「わざとじゃないんだからそこまで怒らなくても・・・」と私自身思っていた。
 この現象についても「強いオタク」という観点を用いるとものすごく簡単な話で、「オタク趣味について勉強して知識を身に着けている俺たちは一般人よりも優れている」と考えるオタクからすれば、一般人の知識不足はオタクが一般人をマウンティングする絶好の機会であり、オタクの言い間違いは「知識が勲章であるオタクに言い間違いや記憶の間違いは許されない!というオタク粛清の機会であるとオタクがみなしているのではないかと考える。

(3) ベテランオタクに対して中堅以下のオタクがにわか呼ばわりする現象
 今までオタクやってきて本気で不可解かつ不愉快に思った誹謗中傷「しょこたんはにわか」も、岡田氏の演説を聞くまではまるで理解できなかった。しょこたんこと中川翔子さんは2004年から未来戦隊タイムレンジャーのタイムピンク/ユウリのファンを公言なさっていて2021年現在だと17年選手のベテランオタクである。タイムレンジャー時代から通算すると21年選手である。さらに言うなら戦隊ファンでありながら仕事の都合で裏番組のポケモンサンデーのMCを担当することになったものの、それでも「貪欲」というキーワードを掲げて戦隊もポケモンも10年以上愛し続けるという芸当をやってのけた筋金入りのオタクである。アニソンアカデミーの相方が、相当年季の入ったオタクであるあべあきらさんなのも納得できる。しかしそんな大御所級のオタクに対して、どう見てもラブライブからオタク趣味をかじり始めたような中堅以下のオタクがにわか呼ばわりしている現象は不可解以外の何者でもないし、ネタだとしても全く笑えない。
 しかし、この現象についても「強いオタクであるべき」という根底思想により説明がつく。中川翔子さんはアニソンアカデミーなどで話を聞くとその節々から多大なるオタク知識がにじみ出てきていると思っている。しかし、中川翔子さんがオタク知識の自慢やオタクとしてのマウンティングをするところってほとんど見たことがなく、知識より先に「(このコンテンツ)好きです!」と愛を語ってらしてることが多い。
 そのため、(岡田氏の定義する)「オタク趣味について勉強して知識を身に着けている俺たちは一般人よりも優れている」と考えるようなオタクが「オタクでありながら、その勲章である知識よりも愛情を優先するなんて何事だ!」と憤慨した結果、にわか呼ばわりしているのではないかと考えている。
 また中川翔子さんでググるとよく出てくる「虚言癖」についてもこの貴族主義に照らし合わせると、「知識が勲章であるオタクに言い間違いや記憶の間違いは許されない!」っていう考えが強いが故に、単なる言い間違いや記憶の間違いを「虚言癖」とレッテルづけているのではないかと考えている。
 とはいえどんな理由があれど、誹謗中傷は許されないことは言うまでもない。 

ガチ勢とエンジョイ勢

 このように岡田斗司夫氏は「オタクの社会的地位を向上させる!」という強い意志のもと、強いオタク像を掲げてオタクの布教活動をしてきたわけだが、同時期に福岡の一地方でひっそり地球戦隊ファイブマンや鳥人戦隊ジェットマンを見て楽しんでいた私からしてみれば、申し訳ないがそんな活動
 知らんがな
としか言いようがない。というか、岡田斗司夫氏の活動について知ったのが2021年9月でしかない。
 連続幼女誘拐殺人事件については当然知っていたし、オタクに対する偏見も感じていた。しかし、私自身は偏見なぞ関係なく(偏見があったから燃え上がるということもなく)ファイブマンやジェットマンを見たり、宇宙船やB-CLUBを読んだり、さらには私に作品評論の書き方を教えてくれたバイブル「ウルトラマン対仮面ライダー-メガヒーロー 光と影の神話」と出会ったり、パソコン通信で他のファンと交流したりしていくうちに、オタクとして成長していったのである。
 このように偏見があろうがなかろうが、スキナモノハスキとしてオタク活動を続けていった方も少なからずいるのではなかろうかと思う。
 岡田斗司夫氏のような「強いオタク」を標榜するガチ勢と、私のようなスキナモノハスキで動いているエンジョイ勢が混在する構図は、何もオタク文化に限った話ではないと考える。
 スポーツジムにおけるスタジオレッスンなんかが典型例である。ジムでは常連ガチ勢がいて、「運動キツいけど我々は周りとは違うから頑張ってる」という貴族主義が彼らの根底に流れていたのではないかと思っている。 
 一方私のほうは当初おねーちゃん方にチヤホヤされる常連ガチ勢を見て、ジムにいるかわいいおねーちゃん方とお近づきになりたかったが、ジムの中ではクソ雑魚レベルの運動能力だったのでとにかく下心をバネに運動していた。しかしやっていくうちに体を動かすことが脳内麻薬の分泌につながっていき、快楽を得られるようになった。そのため、とにかくジムへ週6回通っては平日3時間、休日6時間もスタジオプログラムへ参加して脳内麻薬を分泌しつづけて快楽をむさぼっていたのである。マラソン大会に参加してフルマラソン完走していたのもその活動の延長線である。
 台風が近づいてきたにも関わらず集団筋トレのプログラムに集まった面々を見てインストラクターさん曰く「みんなよく我慢してプログラム参加してるねー」とのことだったが、こちらからすれば「いや全然我慢してないどころか脳内麻薬を我慢しきれなかったからプログラム参加しとるんじゃい」と思っていた。
 ちなみに私のほうは脳内麻薬を我慢しきれなかった様子がどうも張り切りすぎていると思われたためか、ガチ勢から白い目で見られ、さらにガチ勢を信奉するおねーちゃん方から「何この空気ブレイカー」という目で見られていたため、結局交際はおろか嫌われる一方でコロナ禍を迎え、何も収穫を得られずジムを退会することになったのだがw

 私以外にも偏見に関係なくオタク活動をなさっていた方々もおられた。特に京本政樹御大の活動っぷりは素晴らしかった。京本御大は当時ドラマ「高校教師」に出演なさっていて、サブヒロインを強姦してハメ撮りするという、今考えるととんでもない悪役を演じてらした。街を歩けば石ころ投げられそうな偏見の矛先となりそうな方が、「京本コレクション」というブランドで特撮ヒーローの巨大ソフビをリリースしたり、トーク番組で特撮の話を熱弁なさっていたりと、オタクに対する偏見や悪役への偏見をものともせず特撮愛をアピールなさっていた。(もちろんこれは京本御大の必殺仕事人の実績からくる格好良さが自信を裏付けているのかもしれないが。)
 また京本御大の他にも、ゴジラVSキングギドラ公開直前の大人向け特番で泉谷しげるさんがゴジラ愛を熱弁なさっていたり、その番組のインタビューでチェッカーズの藤井フミヤさんがゴジラ愛を語ってらしたり、テレビ探偵団の後継番組にて松村邦洋さんがジェットマンについて語ってらしたりと、この時期においても芸能人の方々が世間の偏見を介さず特撮愛を語っておられた。
 
 また、オタクコンテンツ(?)を供給する公式が偏見を払拭したという鳥人戦隊ジェットマンの例もある。ジェットマンは「戦うトレンディドラマ」と呼称されるように、若者に人気で市民権を得ていたトレンディドラマを戦隊と合体させることにより、広いファン層を獲得して裏番組「らんま1/2」の視聴率を追い抜きシリーズを存続させたのである。もちろんその成功の裏には、放送時間変更で大々的に物語を動かした高速戦隊ターボレンジャーや、夏枯れやヒーロー番組への偏見など苦難に遭いながらも改革への種蒔きを粛々とし続けて踏ん張りきった地球戦隊ファイブマンがあったことも忘れてはならないと思う。閑話休題だが、ジェットマンのスタッフ・キャストの皆様は、オタクコンテンツの復権という視点ではなく、いや戦隊シリーズの存続ということすら目標に考えておらず、とにかく戦隊で一番大きな花火を打ち上げようとして広くファン層を集めるような作品をめざし、結果的に戦隊シリーズの復権、さらには戦隊シリーズのオタクコンテンツ性強化につながったのではないかと考える。

 このように、岡田斗司夫氏の努力は無駄ではなかったと思うが、オタクが社会的に復権してきた理由としては岡田斗司夫氏の努力だけではなく、エンジョイ勢オタクや著名芸能人が偏見関係なく好きなように活動してきたり、公式がより広いファン層を取り込んだりしたという要因も少なからずあると考える。

オタクはしぶとく生きている

 でもって平成初期のオタク危機をどうにか超えていき、2000年代に突入して「萌え」がオタクの中心となっていく現象を見て、岡田斗司夫氏曰く「オタクは死んだ」と演説で発言した。
 確かに私自身も戦隊のオフ会に参加しているとき、参加者からなぜかカラオケでアニソン以外禁止と言われたり、アニメ見ろと説教されて「ミルモでポン」見たけど全然相手にされなかったりしていた。最近振り返ってみるに、その裏には「萌え(アニメ)がわからない人はオタクじゃない」という現象があったのではと思い、岡田氏の持つ違和感には非常に共感できると思った。

 その一方で「2000年代にオタクから貴族主義が消えた」という話については、オタクの巣窟だったパソコン通信でシスオペやボードリーダーという管理者が絶対的存在として君臨していた90年代と違い、個人個人がホームページを開設でき、さらには簡易ホームページとしてブログを開設できるようになったため、貴族主義からの民主化が進んでいった。一方でそのため、貴族主義を掲げた絶対的な管理者の下におけるコミュニティになじめなかったエンジョイ勢オタクがホームページやブログを開設し、意見を発言できるようになったのである。
 岡田氏が不思議に思っていた「自分からオタクをカミングアウトしなかった人がオタク差別を危惧する」という現象や、「オタクが自分からファンイベントを開催しようとしない」という現象も、

・オタクをカミングアウトしなかった人がオタク差別を危惧→昔イジメに遭ったかで心配性になってしまいコミュニティになじめなかったオタクがその心配性が故にオタクをカミングアウトできない日々が続いたが、オタクの民主化により表舞台に出てきてオタクをカミングアウトしてオタク差別を訴えられるようになった

・オタクが自分からファンイベントを開催しようとしない→昔イジメに遭ったか学校になじめなかったかで一匹狼または友達少数だったオタクにとっては、人々を大勢呼ぶファンイベントなんて想定外だった

と、説明がつく。
 そもそもファンイベント開催はオタクでなくても相当敷居が高い。スタッフを集める必要があるし、スタッフ、キャスト、ファン間の人間関係によるトラブルも解決していかなければならない。余談だがイベントに呼びたい声優さんのギャラは年々上がってきて、個人のポケットマネーでどうにでもできるようなものではないと思う。このようにnoteやツイッターに独自考察や創作物を挙げたり、動画サイトへ動画をUPしたりするような一人で完結できるものと全く違う。岡田斗司夫氏が大学でサークル仲間と自主映画を作れるほどのコミュ強という前提条件自体が、友達少数だったオタクへの理解を妨げている。閑話休題。
 そしてツイッターの設立やスマホの普及によりさらに民主化が加速していく。空気を読まなくていい空間として出現したツイッターの出現により、空気の読めない人々や空気を読みすぎて発言できない人々がネットへ参加できるようになった。
 しかしその一方で、民主化が進みすぎてオタクじゃないリア充も参入していくことになる。けいおん!の登場によりオタク趣味に興味のなかったバンドマンがオタクコンテンツを嗜むようになったり、連続ドラマの衰退により流れてきたリア充が深夜アニメを見るようになったり、止めを刺すがごとく鬼滅の刃が登場してそれまでアニメ見なかったような人々までアニメ見るようになったりして、深夜アニメがほとんどリア充コンテンツと化してしまったのではないかという状況になっていった。アニメに限らずゲームやアイドル趣味、鉄道なども次々とリア充コンテンツ化していってる感がある。

 とはいえ私みたいに細々とオタク生活をエンジョイしていってる勢も少なからずいる。また、岡田氏の提唱する強いオタクを標榜したガチ勢オタクについても、選民主義を掲げたりオタク差別したり「ウルトラマンセブン」を毛嫌いしたりする人々がいる限り、絶滅はしないと思っている。それどころかしぶとく生き続けている感がある。

 私の定義する「多様性を追求するオタク」は、少なくとも日本では憲法が改正されて文化の自由が奪われたときにしか絶滅しないし、岡田氏の定義する「強いオタクを標榜したオタク」は、リア充へのコンプレックスという感情が消え去るまで絶滅しないと考える。

終わりに

 以上、私の中でオタク論についてもやついていた箇所がうまく解決できた。これも岡田斗司夫氏によるオタク研究のおかげだと思い感謝している。  

余談

 とはいえ、個人的には岡田斗司夫氏の提唱する貴族主義に立脚したオタク像には全く賛同できないし、むしろいい迷惑だとすら思っている。
 自分のジャンルに関する知識に注力しすぎるとリスクヘッジができなくなり、依存症になり周りへ迷惑をかけてしまうことすらある。
 岡田斗司夫氏曰く、オタクは遊びではなく人生をかけて追及する道であるとのことだった。オタク趣味じゃないかもしれないが私も試合なし空手のマイノリティ思想に救われた部分があり、人生をかけて追及する道として空手を選んだ時期があった。しかし空手道場からは時が経つにつれて村社会的な要素を感じるようになった。空手道場では元々「うちでは安全上のため試合やりません!」と標榜していたが、組手演武の練習で闘争本能の塊みたいな門下生から木刀を手に何度もぶつけられ、先生も闘争本能の塊に注意せず私が悪いことになったことからその道場とは決別した。他の空手道場にも通ったが、度重なる転勤や先生のワンマン指導などで長続きしなかった。道を失い悶々とする日々が続く中、道場退会から8年にしてようやくスポーツジム通いをすることで空手への依存を断ち切ると同時に、自分の中で培ってきた空手道を自分のオタク論へ組み入れることができたのである。
 何かに一度依存してしまうと、脱却するまでの労力が本当にとんでもないことを思い知らされた。私の場合はどうにか脱却するという道を選ぶことができたが、本当に依存症になったとき自分の立場を守ろうと暴力をふるったり、思い詰めて自×に走ったりしていたらと思うと恐ろしくて仕方がない。人生を豊かにするための道が人生を破滅に追い込むとか本末転倒である。

 また、そもそも先のオタク論にも記載したが、オタクを知識量で評価すると圧倒的に高齢者が有利となり、ご新規さんが参入しづらくなる。その一方で高齢者は脳の機能の衰えにより記憶力が年々低下するので、結局は誰も得しなくなる。そもそもWikipediaや公式ホームページ、Youtubeなどでググればソースのあるものならすぐに情報が出てくるご時世である。
 そりゃ知識量を評価指標とすれば、オタクが死ななくても衰退する現象は当然とも思える。カースト決めとは結局椅子取りゲームであり、最後まで続ける以上は椅子が一人になった時点で徒党は組めなくなる
 それよりもレアな嗜好をたしなむ者同士が共感するというレア体験を目標に活動し続けるほうが長続きすると思う。

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