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宇田川寒待

宇田川寒待[ウダガワ カンタイ]

経歴

本名宇田川寒待。明治33年1月7日、東京府東京市日本橋区本石町(現在の東京都中央区日本橋本石町)生まれ。生年月日については、明治37年の説が有る。妹は元女優・江川なほみである。
大正6年、旧制東洋商業学校を卒業後、新劇俳優を志し、加藤精一、森英治郎、横川唯治(山田隆也)、佐々木積らによって組織された新劇団・舞臺協會に加入。本名宇田川寒待を名乗り、東京某座で初舞台を踏む。大正7年、招聘により、東京シネマ商會の専属俳優に急遽転向。同社製作の教育・宣伝映画に出演し、早くも映画デビューを果たす。間も無く新劇に戻り、舞臺協會、帝国劇場(帝劇女優劇)など新劇の諸劇団を転々。大正9年、劇作家・秋田雨雀らによって組織された新劇団・土藏劇塲(先驅座)に加入。エキストラとして、佐々木孝丸、河原侃二、仲島淇三(仲澤淸太郎)らと共演したが、来たる大正12年9月1日に発生した関東大震災の影響で劇場は全壊。同年解散した。大正12年、招聘により、日活向島撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。大洞元吾監督『俠勇』などに出演したが、日活向島は間も無く閉鎖。山本嘉一、小泉嘉輔、三桝豐(三桝萬豐)、酒井米子、澤村春子らと共に日活京都撮影所に異動となる。以後も溝口健二監督『ふるさとの歌』などに出演し、特に青年役・学生役を多く演じた。この間、宇田川寒村または宇田川寒佳と名乗った時期もあったが、誤植か否かは不明。大正15年、尾上松之助が急逝。尾上松之助急逝後の人員整理による大量馘首に遭い、御子柴杜雄、齋藤達雄、小村新一郎、弓削守貞、宮部靜子、衣笠みどりらと共に連袂退社。昭和2年、旧知・笹谷源三郎らの招聘により、日活京都に復帰。日活京都技芸部(現代劇部)俳優係に転向する傍ら、田坂具隆監督『饗宴』などに特別出演していたが、間も無く芸能界からは引退。昭和7年、人事異動により、日活京都宣伝係(情報係)に異動となる。昭和10年、日活多摩川撮影所の竣工に伴い、日活京都宣伝部長(情報部長)に昇格した。昭和12年、日活を突然退社。父・宇田川幸吉の危篤(同年5月28日死去)を機に辞任したものと思われる。退社後、一時休養したのち、京極三友劇場の元支配人・竹本藤吉らと共に軽演劇団・ムーランルージユ京都(京都ムーラン)を組織。マネージャーに転向し、京極三友劇場を拠点に活動していたが、不入りのため僅か数ヶ月で打ち揚げ・解散した。
昭和12年7月以降の宇田川の消息は不明。享年不詳。

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