見出し画像

藤川三之祐

藤川三之祐[フジカワ サンノスケ]

藤川三之祐(1884〜1943)

経歴

本名平田三彌。明治17年3月21日、神奈川県横浜区尾上町(現在の神奈川県横浜市中区尾上町)生まれ。
藤川の経歴には複数の説が有る。生年月日については、明治22年1・3月22日の説が有る。出生地については、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)の説が有る。なお、本名を藤川三之祐とするのは誤植と思われる。
明治32年、旧制中学校に進学するも中退。三井物産會社に勤務したのち、各職業を転々とする。明治34年、俳優を志し、新派俳優・初代佐藤幾之助一座に加入。藤川三之助を名乗り、東京某座で初舞台を踏む。その後、木村猛夫一座を経て、新派俳優・川上音二郎一座に加入し、明治座など関東各座を巡業。明治42年、劇作家・中村吉藏が創設した新社會劇團に加入。大村正雄、四代目嵐璃珏らと共演したが、間も無く劇団は解散した。
明治44年、福寳堂日暮里撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。明治45年退社し、吉澤商店目黒撮影所に移籍したとされる。大正元年、日本活動寫眞(日活)に吸収合併された後も継続入社。大正2年、日活向島撮影所の竣工に伴い異動。デビュー当初は女形俳優として売り出す。大正3年一時退社し、横山運平、立花貞二郎らと共に天活日暮里撮影所に移籍するも大正5年早期退社し、横山運平らと共に復帰。この間、元の日活向島作品に出演した記録有り。男優に転向し、新派映画『夜の鶴』など数多の作品に出演。大村正雄、秋月邦武、山本嘉一らと共に初期日活新派の二枚目として鳴らした。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、横山運平、島田嘉七、宮島健一らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。衣笠貞之助監督『彼女の運命』など、主に敵役・老け役として活躍。大正13年、東亞キネマとの吸収合併に伴い東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。關操、根津新、保瀨薰、速見稔(速見實)、都賀靜司らと共に東亞甲陽撮影所に異動となる。大正14年退社し、映画製作・配給が再開された國活巣鴨撮影所をはじめ、大東キネマ、マキノ御室撮影所、マキノ東京撮影所を転々としたのち、中川信水(佐久間八郎)、林正夫、荒川淸、三島洋子らと共に、マキノプロと当時提携していたタカマツ・アズマプロ(タカマツプロ吾嬬撮影所)に移籍。昭和2年、タカマツ・アズマプロが映画製作・配給を停止。その後は太平フイルムを経て、東京シネマ、振進キネマ、中外活動寫眞協會など教育・宣伝映画各社の作品に出演した。昭和4年、日活太秦撮影所に移籍。横山運平と同じく、藤野秀夫、衣笠貞之助ら日活向島幹部俳優13名の連袂退社事件以来、約7年ぶりに復帰。昭和7年一時退社し、羅門光三郎、原駒子らと共に冨國生駒撮影所に移籍するも同年解散し、高木永二らと共に復帰。この間、再び東京シネマ、ライオン歯磨など教育・宣伝映画各社の作品に出演したほか、新派にも復帰していたという。昭和8年、芸名を藤川三之祐と改名。伊藤大輔監督『女人曼荼羅』をはじめ数多の作品に出演したほか、片岡千惠藏プロダクシヨン、日活多摩川撮影所の各作品にも出演。日活時代劇には欠かせない存在となった。昭和17年、戦時統制により、大映に吸収合併された後も継続入社、大映京都撮影所の専属俳優となった。
昭和18年4月20日、京都府京都市の自宅で病死。享年59歳。遺作は伊藤大輔監督『二刀流開眼』。

関連項目

  • 日活向島俳優名鑑

  • 天活俳優名鑑(準備中)

  • 國活俳優名鑑(準備中)

  • 牧野キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 東亞キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 日活京都俳優名鑑(準備中)

  • 戦前大映俳優名鑑(準備中)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?