別所益枝
別所益枝(ベッショ マスエ)
人物情報
本名:別所ます
旧名:尾上梅曉
別所ますえ
別所ますゑ
別所ます江
別所マスヱ
別所ます子
別所笑子生年:1863年
没年:1940年12月1日以前
出身地:関西?
死没地:?
概要
明治期〜昭和初期に活躍された映画女優。日本初の映画スタア・尾上松之助のデビュー作品『碁盤忠信 源氏礎』に出演され、俗に「日本で初めて映画に出演した女優」として知られるが、経歴など不明な点が非常に多い。
1863年、関西(?)に生まれる。
?年(1883年以前)、関西歌舞伎の女役者・尾上梅昇一座に加入。尾上梅曉を名乗って初舞台を踏み、梅昇門下の花形として活躍する。なお、六代目尾上梅幸門下の歌舞伎役者・尾上梅昇(西村辰之助)とは全くの別人。
?年(1892年以前)、これまで尾上梅昇、尾上梅花、中村春吉、嵐珏藏らと共に東向座(大黑座)を経て、夷谷座の専属として活動していたが、後に福井座に転じる。福井座の竣工と同時に転勤か。
一方、夷谷座では大谷友吉、中村仲吉、市川由尾、市川花松らが専属として活動。福井座と拮抗していたようだが、夷谷座、大黑座など新京極各座で競演もしている。
1900年、福井座が布袋座と名称変更。興行が打ち上げとなり、元夷谷座専属の中村仲吉、市川花松らの加入に引き換え、尾上梅昇らと共に福榮座に転勤。この間も、大黑座など新京極各座で競演する。
1903年、布袋座が朝日座と名称変更。尾上梅昇らと共に朝日座に復帰したとされる。
?年(1906年以前)、牧野省三が経営していた千本座に初出演。後に関西歌舞伎・片岡市之正一派に加入し、千本座の専属に転じる。
1909年、牧野省三の招聘により、日活の前身・横田商會に入社。牧野省三監督『菅原伝授手習鑑』で映画デビュー。片岡市之正・尾上松之助一派で唯一の女優として売り出す。
1912年、横田商會改め日活を一時退社。関西歌舞伎に戻ったか、一時休業したか否かは不明。
?年(1917年以前)、日活法華堂撮影所に復帰したとされる。旧劇映画『鬼丸花太郎』などに出演。
1923年、日活を退社。牧野省三の招聘により、マキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。芸名も別所益枝と改名し、衣笠貞之助監督『花咲爺』などに出演。特に母親役・老け役を多く務める。
1924年、東亞キネマと吸収合併し、東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。牧野省三が東亞から独立し、マキノ・プロダクシヨンを創設した後も暫くは残留する。
1927年、東亞を退社。マキノ・プロダクシヨン(御室撮影所)に移籍。吉野二郎監督『怪談 狐と狸』などに脇役出演した他、勝見庸太郎プロダクシヨンなど提携プロの作品にも助演する。
1930年、マキノプロ争議の発生に伴い、中島寳三監督『信州俠客傳』に出演したのを最後にマキノを退社。芸能界引退。
?年、死去。享年不詳。
元日活太秦撮影所長の池永浩久が、大日本映畫大道會を組織した1940年12月1日以前には、既に故人とみられる。また、京都府京都市上京区にある法輪寺(達磨寺)には、別所の霊牌が祀られている。
※別所益枝氏の経歴及び晩年の消息をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントにてお知らせください。
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