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横山運平

横山運平(1920年)
横山運平(1923年)
横山運平(1925年)
横山運平(1959年)

横山運平(ヨコヤマ ウンペイ)

人物情報

  • 本名:横山彌太郎

  • 旧名: - 

  • 生年:1881年1月1日

  • 没年:1967年4月3日

  • 出身地:滋賀県彦根市

  • 死没地:東京都世田谷区祖師ヶ谷

概要

明治後期〜昭和期に活躍された映画俳優。日本最古の映画俳優として知られ、尚且つ終戦後まで長く活動された事から、俗に「生きている日本映画史」と呼ばれた伝説の人物である。

1881年1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の滋賀県彦根市)に生まれる。

出生地については、大阪府大阪市の説も有る。

1893年、旧制小学校を卒業後、新派の草分けとして知られる角藤定憲一座に加入。横山運平を名乗り、初舞台を踏む。

1899年、一座を抜け出して上京。赤坂演伎座専属の新演劇・むつみ一座という書生芝居の劇団に加入。同座出勤中、活動弁士・駒田好洋が監督を務めた無声映画『ピストル強盗 淸水定吉』のキャストに抜擢され、映画デビューを果たす。

1900年、赤坂演伎座専属の新派俳優・春木千八郎一座に加入。後に関西地方に戻り、福井茂兵衞、木村周平、伊井蓉峰、酒井政俊などの新派・新劇一座を転々とする。

1907年、新派俳優・高田實一座に加入。約5年間の俳優修業に励む。

1912年、日活の前身・吉澤商店目黒撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。日活に吸収合併された後も継続入社。

1913年、日活向島撮影所の竣工に伴い異動。主に悪役俳優として売り出す。

1914年、日活を一時退社。立花貞二郎、藤川三之助らと共に天活日暮里撮影所に移籍する。

1916年、天活を退社。藤川三之助と共に日活に復帰する。この間、日活向島作品に出演した記録有り。

1922年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍する。

1923年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、島田嘉七、宮島健一、藤川三之助らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍する。

1924年、東亞キネマと吸収合併し、東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。後にトラブルメーカー・立石駒吉の大量引き抜きに遭い、宮島健一、關操、森靜子ら数名と共に帝キネ芦屋撮影所に電撃移籍する。

1925年、帝キネ芦屋撮影所の創立メンバーの連袂退社、帝キネ小阪撮影所の強制閉鎖などに伴い、帝キネは3つの派閥に分裂。横山は立石駒吉と同行して東邦映畫製作所(等持院撮影所)の創立に参加するが、僅か数ヶ月で解散。立石と袂を分かち、東亞甲陽撮影所に移籍する。

1927年、東亞甲陽撮影所が閉鎖。東亞等持院(京都)撮影所に異動となる。

1929年、東亞を退社。日活太秦撮影所に移籍。藤野秀夫、衣笠貞之助ら日活向島幹部俳優13名の連袂退社事件以来、約7年ぶりの復帰となる。殊に老け役を熟し、同所の貴重な名脇役として数多の現代劇・時代劇に出演する。

1937年、日活を退社。フリーランサーとして、P.C.L.映畫製作所、J.O.スタヂオの各作品に出演後、吸収併合後の東寶映畫撮影所に移籍する。

1947年、東宝争議の発生に伴い、東宝を早期退社。新東宝に移籍する。以後、日本最古参の映画俳優として重宝される。

1957年、第2回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、永年勤続功労章を受章する。

1958年、新東宝を退社。戦後再興された日活に移籍する。松尾昭典監督『清水の暴れん坊』など、日活の大スター・石原裕次郎とも共演している。

1960年、日活を退社。約13年ぶりに東宝に復帰するが、この頃から高齢により徐々に出演作品が減少。稲垣浩監督『ゲンと不動明王』など、年に1本のペースとなる。

1962年、稲垣浩監督『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』に出演したのを最後に東宝を退社。芸能界引退。

1966年、俳優として脇役の演技に努め、映画界の発展に寄与した功績が認められ、勲五等双光旭日章を受章する。

1967年4月3日、老衰のため、東京都世田谷区祖師ヶ谷の自宅で死去。享年86歳。

フィルモグラフィ

※目下準備中

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