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宮島健一

宮島健一(1923年)
宮島健一(1925年)
宮島健一(1955年)

宮島健一(ミヤジマ ケンイチ)

人物情報

  • 本名:菱田勇吉

  • 旧名:宮島憲一
       宮島健弌

  • 生年:1895年7月5日

  • 没年:1986年2月13日以降

  • 出身地:愛知県愛知郡熱田町

  • 死没地:?

概要

明治後期〜昭和期に活躍された映画俳優。映画草創期から活動されている名バイプレーヤー。また、現存最長寿の映画俳優(1986年当時)にも認定された事がある、知る人ぞ知る名優である。

1895年7月5日、愛知県愛知郡熱田町(現在の愛知県名古屋市熱田区)に生まれる。

生年月日については、1895年ないし1897年1月21日の説も有る。また、出生地についても、東京府東京市(現在の東京都区部)の説が有り、何れも判然としないが、学歴・職歴等から判断した。なお、本名を菱田裕吉とするのは誤植と思われる。

1912年、旧制・私立明倫中学校を卒業後、某専門学校に進学するも途中退学。革新派劇団・竹内一郎一座に加入し、吾妻座で初舞台を踏む。当時の芸名は宮島憲一

1914年、一座を脱退。加藤精一、森英治郎、横川唯治(山田隆彌)、佐々木積らによって組織された新劇団・舞臺協會に加入する。

1919年、舞臺協會を脱退。映画監督・桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所する。小口忠監督『かなや小梅』で映画デビューを果たす。

1922年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍する。

1923年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、横山運平、島田嘉七、藤川三之助らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。芸名も宮島健一と改名し、二枚目俳優として売り出す。

1924年、東亞キネマと吸収合併し、東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。後にトラブルメーカー・立石駒吉の大量引き抜きに遭い、横山運平、關操、森靜子ら数名と共に帝キネ芦屋撮影所に電撃移籍する。

1925年、帝キネ芦屋撮影所の創立メンバーの連袂退社、帝キネ小阪撮影所の強制閉鎖などに伴い、帝キネは3つの派閥に分裂。宮島は立石駒吉と同行して東邦映畫製作所(等持院撮影所)の創立に参加するが、僅か数ヶ月で解散。立石と袂を分かち、東亞甲陽撮影所に移籍する。

1927年、東亞甲陽撮影所が閉鎖。東亞等持院(京都)撮影所に異動。印南弘監督『黄金の彈丸』など多数の作品で主演を務める。

1928年、東亞を退社。再び上京し、松竹蒲田撮影所に移籍。この頃から脇役俳優として活動するようになり、小津安二郎監督『東京の合唱』など数多の作品に出演する。

1930年、新年宴会において、大山健二、河原侃二、大國一郎(大邦一公)ら数名と共に準幹部待遇に抜擢される。

1936年、松竹蒲田撮影所が閉鎖。新たに竣工された松竹大船撮影所に異動となる。

1947年、約20年間在籍していた松竹を退社。大映東京撮影所に移籍する。

1957年、第3回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、永年勤続功労章を受章。この年、映画俳優で受章されたのは宮島のみであった。

1965年、島耕二監督『六人の女を殺した男』に出演したのを最後に大映を退社。芸能界引退。

1971年、嘗て太秦開町停留所(京都市バス)付近にあったマキノ省三先生像が等持院境内に遷座した事を記念して、映画史家・御園京平が著書『回想・マキノ映画』を限定刊行。同書において、市川右太衛門、片岡千恵蔵、杉狂児、岡島艶子らと共に寄稿している。

1986年、雑誌『キネマ旬報』1986年2月13日号(増刊「映画40年全記録」)において、同書発行時点で現存最長寿の日本の男優である事が公表される。

?年、死去。享年不詳。

※宮島健一氏の晩年の消息をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントにてお知らせください。

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※目下準備中

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