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小栗武雄

小栗武雄[オグリ タケオ]

小栗武雄(1897〜?)

経歴

本名島根武二郎。明治30年4月15日、東京府東京市芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)生まれ。本名については、上記の他に島根武次郎島根武雄島根武夫とする説が有り、定かではない。
明治45年、元文部大臣・長谷塲純孝邸の学僕を経て、某少年新派劇団に加入する。小栗武雄を名乗り、赤坂演伎座で初舞台を踏む。その後、自ら俳優研究会たらん新興劇一座を組織し、地方巡業の旅に出たとされる。大正3年、新派俳優・井上正夫の一座に加入し、新冨座、本郷座などに出演。また、劇作家・小山内薰、二代目市川左團次らが興した自由劇塲の公演にもエキストラとして出演した事があるという。後に松竹専属となり、元安豊(中村鴈右衞門)、磯川元春、山田巳之助、武田春郎(武田秀郎)、兒島三郎らと共演した。大正9年脱退し、初代喜多村綠郎の門弟に転じる。以後、常盤座など関東・関西各座に出演。デビュー当初は立役として活動していたが、新派俳優・川島新三郎に見出され、この頃から女形俳優として活躍。この間、旧制築地工手学校建築科を卒業し、早稲田大学理工科に進学する。当時は俳優ではなく実業家を将来志していたようだが間も無く中退、頓挫した。
大正11年、映画監督・田中榮三の招聘により、日活向島撮影所に入所。映画俳優に完全に転向。若山治監督『永遠の謎』で映画デビューを果たす。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、衣笠貞之助、東猛夫、島田嘉七ら幹部俳優の連袂退社後も残留。同じく日活向島に残留した森淸、若葉馨、稻垣浩らと共に引き続き女形俳優として売り出し、瞬く間に女形スターとなる。同年9月1日、関東大震災発生に伴い、日活向島は間も無く閉鎖。山本嘉一、小泉嘉輔、三桝豐(三桝萬豐)、酒井米子、澤村春子らと共に日活京都撮影所に異動となるが、程なくして一時退社。大正13年、新劇俳優に転じ、田中榮三、水谷竹紫らと共に新劇団・メザメ座(小栗武雄一座)を組織。神樂坂牛込會館に出演していたが、不入りのため間も無く解散。同年、日活京都に復帰するが、現代劇部ではなく旧劇部(時代劇部)の専属俳優に転じる。公木之雄監督『憂國の志士』などに出演し、片岡松燕、尾上多摩之丞、中村歌枝ら尾上松之助一派の女形俳優と共演。大正15年、女形廃止と共に男優に転向したが、役柄に恵まれず、池田冨保監督『落花の舞』を最後に退社した。同年、剣劇の流行に則り、井上正夫一座時代からの旧知・元安豊(中村鴈右衞門)、瀨戸日出夫、大山泰らと剣劇団・劔星劇を組織。凌雲座など東京各座に出演したが、間も無く解散。その後は喜劇俳優・曾我廼家五九郎一座をはじめ、松竹家庭劇、大竹保劇團、小栗武雄一座など、戦時中にかけて新派・喜劇の一座を転々とした。
昭和15年9月以降の小栗の消息は不明。享年不詳。

関連項目

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