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宮島健一

宮島健一[ミヤジマ ケンイチ]

宮島健一(1895〜没)

経歴

本名菱田勇吉。明治28年7月5日、愛知県愛知郡熱田町(現在の愛知県名古屋市熱田区)生まれ。
宮島の経歴には複数の説が有る。生年月日については、明治23・30年1・3月12・21日の説が有る。また、出生地についても、東京府東京市区部(現在の東京都区部)の説が有る。何れも判然としないが、学歴・職歴等から判断した。なお、本名を菱田裕吉とするのは誤植である。
明治45年、旧制私立明倫中学校を卒業後、某専門学校に進学するも中退。革新派劇団・竹内一郎一座に加入し、宮島憲一を名乗って吾妻座で初舞台。大正3年、一座を脱退し、加藤精一、森英治郎、横川唯治(山田隆也)、佐々木積らによって組織された新劇団・舞臺協會に加入。新劇俳優に転向した。
大正8年、劇団を脱退。桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所。小口忠監督『かなや小梅』で映画デビューを果たす。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、横山運平、島田嘉七、藤川三之助(藤川三之祐)らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍する。芸名も宮島健一と改名し、二枚目俳優として売り出す。この間、宮島健弌を名乗った事も有る。大正13年、東亞キネマとの吸収合併に伴い東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。後にトラブルメーカー・立石駒吉の大量引き抜きに遭い、横山運平、關操、森靜子ら数名と共に帝キネ芦屋撮影所に電撃移籍。大正14年、帝キネ芦屋撮影所の創立メンバーの連袂退社、帝キネ小阪撮影所の強制閉鎖などに伴い、帝キネは3つの派閥に分裂。宮島は立石駒吉と同行して東邦映畫製作所(等持院撮影所)の創立に参加するが、僅か数ヶ月で解散。立石と袂を分かち、東亞甲陽撮影所に移籍する。昭和2年、東亞甲陽撮影所が閉鎖した為、東亞等持院(京都)撮影所に異動。印南弘監督『黄金の彈丸』など多数の作品で主演を務める。昭和3年退社、再び上京して松竹蒲田撮影所に移籍。この頃から脇役俳優として活動し、小津安二郎監督『東京の合唱』など数多の作品に出演。昭和5年、新年宴会において、大山健二、河原侃二、大國一郎(大邦一公)ら数名と共に準幹部待遇に抜擢される。昭和11年、松竹蒲田撮影所が閉鎖。新たに竣工された松竹大船撮影所に異動し、終戦まで在籍した。
昭和22年、約20年間在籍していた松竹を退社。大映東京撮影所に移籍し、引き続き脇役・端役俳優として活動する。昭和32年、第3回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、永年勤続功労章を受章。この年に受章した映画俳優は宮島のみであった。昭和40年、島耕二監督『六人の女を殺した男』に出演したのを最後に退社。芸能界を引退した。昭和46年、嘗て太秦開町停留所(京都市バス)付近にあったマキノ省三先生像が、等持院境内に遷座した事を記念して、御園京平が著書『回想・マキノ映画』を限定刊行。同書において、市川右太衛門、片岡千恵蔵、杉狂児、岡島艶子らと共に寄稿。昭和61年には、雑誌『キネマ旬報』昭和61年2月13日号(臨時増刊「映画40年全記録」)において、同書発行時点で現存最長寿の日本の男優である事が公表された。
晩年の宮島の消息は依然として不明だが、平成元年1月以前には既に故人であるとの事。享年不詳。

関連項目

  • 日活向島俳優名鑑

  • 國活俳優名鑑(準備中)

  • 牧野キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 帝國キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 東亞キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 松竹蒲田・大船俳優名鑑(準備中)

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