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「いのち」はつながっている

「心の自由」は誰にも奪えない。

思いは勝手に湧いてくる。しかし、それは心とイコールではない。
教え、環境、法、出会い、、、外からの要因で思い込みは生じる。
心は腑に落ちる。私らしさを教えてくれる。
自分を見失い思いに苦しみもがいた末、立ち止まることを覚えた。
「本当にそうか?」
思いに向きあい、心に問う。
最近ではモヤモヤしていると立ち止まらずにはいられなくなってきた。案外、忘れてしまっていた子どもの頃の苦い思い出、親に言えずに心の闇にしまい込んでいた、転校直後の軽いイジメや性に興味津々の男児からの接触の強要、そんな他愛もないものが思い込みに強く影響していたことに気付かされた。「最低!」と心で叫べたら、「ひどくない!?」と吐き出せる相手がいたら違っただろう。そうできるようになったのは、自分の愚かさ醜さ弱さを受け容れられるようになってからだ。

許すことを覚えた。

心は強要する必要も共有する必要もない。
違っていい。

人の数だけ、命の数だけ道がある。
全く同じ道はない。

ただ、「誰しも心の底では安らぎを求めている」、そして、「安らぐためには他の命も安らいでいることを求める」と信じるようになった。

自ら安らぐために、他の安らぎのために動く

だから、自ら苦しみ犠牲になるのは違う。
大切に思う他の命はそれを望まない。
自分の心に問うてそう思えるようになった。

答えは自分の中にしかない。
自分の心が安らぐために素直に動いてみて、経験して初めてそれで良かったのかどうかを学ぶ。自分の中の答えが、外の違う心と繋がるために失敗しては問うて経験してをくり返す。そうして、濡れた薄紙が剥がれるよに少しずつ思い込みに気づき、真理に近づくように思う。

この世では自ら安らぐために他の命を殺すことも避けられない日常である。

他の命のために殺されても、恨み復讐することなく常に浄化に向かおうとするありのままの自然に本来の姿をみる。

ある種は枯れても別の種が芽吹く様は、命を超えた「いのち」がつながり絶えることはないことを教えているように思えてならない。

ああ、それでも傷つくことを恐れる思考は湧いてくる。奪われるのではないかと思い込む幻想から逃れるのは何と難しいことだろう。

痛い、苦しいと叫ぶのも繋がるためなのだ。
その叫びを聞いてくれる誰かがいると信じているのだ。
苦痛の中で息絶えるのかもしれない。
それでも別の命につながるならそれでいいと、
別の命はきっと安らぐ一歩を踏み出すのだと、
いつしか、「いのち」としてあることに気づくために。

そう願う私の心は自由だ!

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