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エロスの画家・高橋秀の物語(12)【アートのさんぽ】#24

装飾的な黒の使い方

 高橋秀の個展は1974年に、ヴェネツィアのカヴァリーノ画廊で開催され、ついで「第4回デュッセルドルフ・アート・フェア」のロンダニーニ画廊のブースで開催された。

この時、日本の美術評論家の針生一郎は、高橋のエロスをテーマに、カヴァリーノ画廊での個展のために序文を書きカタログに掲載した。

 「色彩や面の関係は、あくまで幾何学的、構造的な計画にもとづくが、個々の形態には柔軟な曲線にかこまれた有機的形態がめだつ。しかもそこには、強烈なエロティシズムが、あけっぴろげの哄笑とともにほとばしる。といっても、性的な連想や象徴があるわけではなく、色と形の明快で不均衡な関係が、観衆の想像力のうちにエロスとユーモアにみちた詩的感情をよびおこすのだ。高橋によれば、彼は今でもイタリアの澄んだ青空をみつめて、モチーフをつかむことが多いという。実際その作品では、白、青、ピンクなど色面の対比が、空間を限定するかわりに、無限の外辺にむかって開放する。」

 ここに描かれた色彩には大和絵の感覚がある。これは、現代の日本の作家たちにも共通するように見えるものだが、宗達や光琳、浮世絵の画家たちが、大胆な構成と強烈な色彩の対比で装飾し、躍動する空間を生んできた伝統に由来する感覚である。

高橋も、イタリアでの10年間の思索の中で、大和絵的な色彩感覚をつかんだのだろう。

 さらに高橋は美術家の社会的使命、社会における美術家の位置ということを意識し、社会的にひとつひとつ影響を及ぼし、投げかけていく制作をしなければ、という意識を強くもつようになっていた。自分の作品の中に、引きこもるのではなく、一般の人たちに語りかける明確なメッセージを伝えるため、自作を社会に開かれた空間に置くこと、社会に訴求する手法をとることを望んでいた。それゆえに、建築空間の壁画や、リトグラフやシルクスクリーンによる版画にも積極的に取り組んだのである。とくに、ヴォルテッラの作品について、針生は「芸術は個人の密室で物神化されるのではなく、日常生活の環境に入りこむべきだ、という思想の勝利だ」と述べる。

 カヴァリーノ画廊の個展に出品された《夜の愛》(1973年)を見てみよう。


高橋秀《夜の愛》1973年

細長い豆のような黒い長楕円が2つ、その間にオレンジ色の成長しはじめた幼芽のような帯が1本縦に走っている。オレンジ色の帯は見方により肉感的、官能的に映ったりし、エロティックな表現にもなっている。

しかし、ここに見られる黒色は、暗闇のそれではなく、鮮やかなオレンジ色を引き立てる色彩感をもった黒の使い方がされている。この黒の使い方は、大和絵の伝統のなかに幾つか見られが、その代表的な作品に伝藤原隆信《伝源頼朝像》(国宝、鎌倉時代、神護寺蔵)がある。ここに描かれる源頼朝像は、黒い冠に黒袍(くろほう)の束帯姿が大きな領域を占めるが、そこにベージュ色の笏(しゃく)が一本手に立てられ、画面を引き締め、緊張感のある肖像画にしている。


伝藤原隆信《伝源頼朝像》

この画面の大きなポイントとしての平面的で装飾的な黒の使い方は、大和絵の肖像画(いわゆる「似絵」)の特徴のひとつであるが、高橋はその伝統を見事に引き継いだ形の表現をとっている。

 

エロスと生命のリズム

 

1981年、ローマの3K工房による銅版画の刷りで、東京の現代版画工房が版元となり8点組の版画集「遠心分離」が出版された。この3K工房は、高橋と親しかった刷り師フランコ・チョッピ(故人)の弟子3人の刷り師が始めた工房であった。

 この版画集には美術評論家で京都大学教授であった乾由明の長文のエッセイが添えられ、乾はその中で、この版画集「遠心分離」を、これまでの規則的なフォルムを脱した新しい線による表現であると評価した。それは「自由闊達な手の運動をしめすのびやかな線である」と。

乾は、ここに含まれる作品を2つに分けて論じた。

ひとつは、線による表現に重きをおいたもので、もうひとつは色面を中心に構成されたものである。

前者には《噴水-夜明け》、《処女果実》、《海の風》が含まれる。


高橋秀《噴水-夜明け(遠心分離)》1981年

「いずれも肉体のリズムにもとづく生気と自発性にみちている。このようないわば生命的ともいうべき自在な動感をもつ描線は、シンメトリーの厳しい意志に律せられた、これまでの高橋秀の作品には余り見られなかったように思う」と。

この描線は、銅板を直接彫ってゆくドライポイントならではの滲んだ表現豊かな線であった。

後者には《噴水―夕暮》、《前兆》、《誘惑の門》が含まれる。


高橋秀《噴水-夕暮(遠心分離)》1981年

それは「線よりも色面を中心に構成されている。しかしその色面も、線におけるのと同様の濃淡の柔かい変化に満ちていて、けっして単一な色の広がりではない」、そして「画面下方の三角形のところにほどこされた多色の帯は、それぞれわずかに異なる淡い色彩で刷られ、繊細な諧調をしめしている」と。

この階調は、通常の多色銅版と違い、1枚の原版のうえにインクをのせ、一度他の紙に刷って色調をうすく落としてから刷られたものであった。

これらの作品は、「個々の線や色面はもとより、それらがあつまってつくりだす画面全体の表現において、規則的な形式にとらわれない、ほとんど即興的といっていいほど自在で、のびやかな動きにみちている。厳しい構成の意志に代って、ここでは画家の独自の生命のリズムとデュナミズム[ダイナミズム]が、手をとおして率直に発現しているのである」と。

乾は高橋秀の仕事について述べる。

「この画家の仕事は、よりひろく人間の生の現存の総体に根ざしているのであり、そしてさらに重要なことは、エロスをも含めたそういう生命の律動が、作品において、極めて明晰な凝縮したフォルムとしてあざやかに純化され、透明化されているのである」と。

乾の言う「エロスをも含めた…生命の律動」は、高橋の1970年代以降の作品に一貫して見られるライトモチーフとなったものである。

 高橋のイタリアにおける作品制作は、禁欲的なモノクローム表現から始まったが、1967年頃からカラフルな絵画を描くようになる。それは、日本で制作していた頃の芸術に対する呪縛から自由になれたこと、精神的な解放によるものであった。

形態的には、当初、幾何学的な造形性のみを求めていたが、ここでも精神的な解放により、空間的な広がりや有機的な形態、エロスの造形を求めるようになった。高橋にとってエロスとは、日本的なフォルムであるとともに、生命の根源的なものであった。

 

 参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社


#高橋秀 #イタリア #エロス #大和絵

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