エロスの画家・高橋秀の物語(5)【アートのさんぽ】#12
1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。1961年に三度目の正直で安井賞を受賞する。ただそれは心から喜べる受賞ではなかった。安井賞者に期待されるものと、本当に求めたい作品傾向との乖離に悩み、ついに1963年、イタリア留学を決心する。
安井賞の受賞
高橋秀は、安井賞を逃した翌年(1961年)、それを取り戻すかのようにたくさんの仕事をした。
5月に東京・銀座のギャラリーキムラで個展を開催し、7月に新しいグループのヌーヴォ第1回展に参加した。10月には、みづゑ賞展でみづゑ準賞を受賞し、さらに同月、第29回独立会展に《海-渚》《月の道》《太陽の海》を出品し、独立美術最優秀賞(須田賞)を受賞し、独立美術協会会員に推挙され、11月に名古屋のサカエ画廊で個展を開催した。
そして12月、ついに《月の道》によって第5回安井賞を受賞したのである。
この年の活躍により美術雑誌で度々採りあげられたが、安井賞受賞で時の人としてさらに注目度が上がった。ここでは当時の記事を参照しながら、高橋の作品や人となりがどのように採りあげられたのかをみてみたい。
まず、ヌーヴォ展について。
これは、独立美術協会の若手作家である江口良(1926-1980)、松樹路人(1927-2017)、そして高橋によって結成されたグループ展で、日本橋の白木屋で開催されたものである。
美術評論家の中原佑介は、高橋の《北の国の湖水》《マリモの湖》などについて、次のように述べている。
「高橋が、湖水とか道とかをモチーフにしながら、壁のようなくすんだ色彩と明るい青の対比をつかって、堅牢な作品を作りだしているのが、会でもっとも目立った。」(『美術手帖』1961年9月号)
中原が注目したのは、モチーフよりも、高橋の色彩感覚と堅牢なマチエールである。壁という言葉も使っていて、いかにも古く年季を感じさせる壁のような質感を指している。そこに時代感覚が表われていると見たのだろう。
同じく美術評論家の江原順は、別の見方をする。高橋と江口の「ふたりは、タピエスを思わせる厚塗りの素材による抽象作品である。高橋の作品は、少しばかりスタティックにまとまりすぎたきらいがある」(『みづゑ』1961年9月号)と述べている。高橋のマチエールがアントニ・タピエス(1923-2012)のそれを思わせ、戦略的なわざとらしさがあるというのである。
中原と江原の評価の違いは、物事の表裏のような気がする。タピエスの影響を受けているのは事実であろうが、それを時代感覚と捉えるか、わざとらしさととるかの違いであろう。
マチエールとは何か
確かに当時、マチエールが絵画において最も重要な要素であり、それこそが時代をとらえる重要なテーマであった。
たとえば『美術手帖』1961年9月号で、「現代絵画とマチエール」という特集が組まれた。これは1950年代後半から60年代初頭にかけて、油彩だけではなく各種の材料を使ったマチエールの絵画がきわめて多くなってきたという認識のもとに組まれたものである。
ここで大きく採りあげられたのは、ジャクソン・ポロック、ジャン・デビュッフェ、ジャン・フォートリエ、アントニ・タピエス、アルマン、エンリコ・カステッラーニ、斎藤義重、杉全直の作品であった。
中原佑介は、「数年前にいわゆる「アンフォルメル」旋風が吹いて以来、急速にヘビー級絵画の氾濫ともいうべき現象が起った。厚ぬりというやつである。フォートリエ、デビュッフェこそ、あたらしき素材の時は来りぬという最初のうたい手であるというわけである。(中略)そのあらわれかたは多様である。ポロックのように、描写されるものがあり、描写する主体があるという習慣化された関係そのものを抹殺する例もあれば、デビュッフェのように、手仕事という行為にあたらしい照明をあたえて、描写ということを人間の行為の優位ということで崩壊させるという例もある。あるいはかなり折衷的なところもあるがスペインのタピエスのように優しき即物性の強調ということもある」(『美術手帖』1961年9月号)と述べる。
中原は、アンフォルメル以来の現代絵画の諸相を見つめるなかで、厚塗り絵画の意味を探った。フォートリエが端緒となり、ポロックが描写の意味を変え、デビュッフェが人間の行為の優位性を強調し、タピエスが即物性を強調したと主張した。
須田剋太は、マチエールについて、踏み込んで次のように述べた。
「使用が自由で技術がやさしく、スピードとスリルと冒険、体験行動と、ピタリとしている魅力ある材料-保存も絶対不変-こういう素材を皆が待望している。なぜこの素材記号を選ぶか?その素材が近代性の主体だからだ!その素材が私なのだ!その画面を見ただけで、タピエスだ!フォートリエだ!須田剋太だ!という性格にまで触覚的に、媒体と私がとけ込んでいないと、スタイル樹立までゆかぬ。」(『美術手帖』1961年9月号)
須田が強調したのは、マチエールが現代の主役であり、それがアイデンティティーとなって、己のスタイル確立につながるということである。高橋と共通する考え方が見える。
中原佑介が高橋と相似していると指摘したタピエスの特集が、美術雑誌『みづゑ』1961年9月号で組まれた。
そのなかで瀧口修造は、次のように述べた。
「タピエスの絵画はしばしば壁にたとえられている。が、壁を描くということはどういうことだろう。かれはけっして壁を描写しようともしていないし、壁に似たものをつくろうとさえもしていないのだ。それは外観ではないし、象徴ですらない。そういうことはまったく別に、しかも画家は表面の魔法に到達していることが魅力なのである。しかもこの表面は外側からでなく、内部からつくられている。それはトロンプ・ルイユに似ていて、これほど遠いものはないだろう。これは絵画に新しい表面をつくりだしたが、いわばそれは実体の触覚とでもいったものなのである。」
絵画におけるマチエールの重要性が叫ばれていた当時の考え方が示された。とくにこの壁のようなマチエール、あるいは表面の魔法を内部からつくろうという考え方が、特徴的といえる。そこにわざとらしくない、実体としての触覚があるというのである。
この考え方は、まさに高橋のマチエールづくりと共通していた。
安井賞受賞作品のマチエール
とくに安井賞受賞作品の《月の道》は、コンクリートを使ったミクストメディアによるマチエールであった。
これについては、美術記者の船戸洪が世田谷区弦巻の高橋のアトリエを訪ねて興味深い記事を書いている。
「画室は、これもどこにでもあるありきたりの大きさ、ありきたりの備品、イーゼル、キャンバス、絵具箱、その他、もろもろの何に使うか判らないがらくたや、烏と雉のミイラ、etcである。セメントの袋がころがっている。高橋氏のマチエールは、セメントをキャンバスに盛り上げたり、けずったり、絵具をつけたり、こすったり、の当今流行のオブジェ画法だから、これも改めて聞くまでもなく説明がつく。当然下塗りを必要としていないから、キャンバスも麻生地そのままのものが立てかけてある。」
アトリエの様子からそのマチエールづくりがわかってくる。下地塗りのない生キャンバスにセメント、油彩を使っているその現場を目の当たりにしたというのである。これは独自のマチエールというよりも、いろいろな作家の影響が混じりあったものだというのは、高橋自身も認識していた。《月の道》におけるこの道路というモチーフは、そのマチエールを生かそうと思って選ばれたものであった。テーマがあって、それに合わせて素材を選んだのではなく、素材に合わせてテーマを選んだといえる。当時の高橋は、本物が何なのかを求め、自分のものこそ本物でなければならないという思いで描いていた。自分の存在のリアリティーを作品にどのように委ねるのか、偽りのない自分をどのように表現するのかということからのマチエールづくりだったわけである。
さらに船戸は、高橋の人となりについて記す。
「秀君は-いまや高橋氏などと堅苦しく呼ぶ気持ちはない-広島県芦品郡新市町の出身で31才である。小供[ママ]のときおとうさんを失った。以来、おかあさんが針仕事で秀君を生育した。土地の中学を出て、上京した。涙の別れだったそうである。東京で武蔵野美術学校にほんの僅か在校中退、昭和26年に独立展に初出品、受賞、会友、受賞、受賞、36年に会員に推挙された。36年には第三回みづゑ賞展に招待されみづゑ準賞、そして独立美術展最高賞、安井賞と、ツキにツイた。ツイたわりに、賞金合計は30万円たらずだったらしいが、女房とおふくろが喜んでくれたので、31才の青年画家は充分満足だったようだ。
…高橋秀君は1.7メートルくらいの長身、エビ茶のセーター、灰色のズボンの似合うドライバーである。奥さんが心配するくらい美男子?である。立派な画家で立派な夫である。-私は立派な夫ぶりだけに終始したようだが、立派な画家のほうは安井賞受賞で証明されている。あえて私が蛇足を加えれば、受賞作「月と道」は極めて明るく、楽しい絵である。われわれの周囲には、あまりに暗い、苦悩に歯ぎしりしているふうな、表情たっぷりの絵が多すぎる。そんな絵ばかりだ。これは嘘だと私は思う。人間は苦しんでばかりいられないはずだ。むしろ楽しみを追う動物だろう。
高橋秀君の絵が-旧作はともかく-明るく楽しいことが私には期待を持たせる。その正直さが…正直な画家よ正直な夫たれ。乾しかれいのお礼をこめて高橋夫人に贈る。」(『美術手帖』1962年2月号)
《月の道》について
ここで印象深いのは安井賞受賞作《月の道》について明るく、楽しい絵だと述べている点である。つまり、そこに軽快さ、明快さを見たわけである。これは船戸の慧眼のような気がする。
その後、イタリアに渡った高橋の制作活動を見ると、明るく楽しいというのは、1960年代、1970年代の絵画的な特徴になったからである。
あらためて《月の道》を見てみよう。
そこに、道路と横断歩道、路面に映る丸い月だけが見える。形態的には矩形の組み合わせの抽象画であるが、船戸が述べるようにコンクリートを使って下地をつくり、油彩を使ってリアルな路面を仕上げている。したがって、道路や横断歩道、月に深い意味があるというよりも、コンクリートや油彩を使うにふさわしいモチーフとして取り上げられたものと考えられる。
ここで高橋が試みたのは、《四つの椅子》で示したような抒情性を崩していくことであった。その抒情性は駒井哲郎や古茂田守介の影響もあり培ってきたものであったが、それが画面を甘くしていたと考えたわけである。
高橋は「評論家先生たちが抒情だ、リリカルだと言うところが、わたしがちょっと味付けしたところ、こうすればこう言われるだろうと判ってしまった」(『高橋秀:画家とコレクター』)と述べる。だからこそ小手先でつくる絵画ではなく、本物のマチエールを求めたのである。
さらに「自分にとっての本物、自分の存在のリアリティーを作品の中にどのように組み立てて行くのか、そのことだけ」(『高橋秀:画家とコレクター』)を考えたとも述べた。
高橋にとっての本物というのは、油彩絵具だけで描く絵画ではなく、コンクリートなどを使って構築する堅固なマチエールだったのである。
イタリアに渡る準備
ただ、安井賞の受賞については、高橋の中でもさまざまな思いがあった。
このことについて、画家の阿部展也は次のように述べている。
「高橋君にしても、安井賞をとるまでは、人情としてもほしかったことであろう。それだから、安井賞候補新人展に出したわけであろう。また当時はそれに適合する精神状態と技術の持主であったわけである。賞をもらった翌年は、かなり派手な動きが彼の記録にはみられる。著名新人作家としての活動であるが、徐々に、彼は自分の受賞作品に疑問を持ち出したという。こういう自分に対する疑問というものは、人間、得意の時代にはなかなか持てぬものである。」
「安井曾太郎が彼の時代に果した仕事を考えての上での安井賞という大きな名が、果して自分の受賞作品「月の道」が受けとめる価値のあるものかどうかということであった。高橋君は安井賞をもらった時から、それまでの安井賞の性格に反逆し脱皮する抵抗を試み始めたといえる。」(『美術手帖』1966年7月号)
前年(1960年)に安井賞を欲しくて逃した時、高橋は本物の抒情をもっていると評論家に言われていたが、その頃から抒情性を求めるのでなく、先に述べたように揺ぎない本物のマチエールに基づいた造形を創造したいと考えるようになっていた。
そのマチエールを探求している途中で描いた作品により安井賞受賞となった。不本意なところもあり受賞の辞退も考えたが、家族の喜びように押される形で受賞を決意した。
受賞後、すぐに複数の画廊から「安井賞作家として」の作品の注文があった。しかしそれに充分に応えらないようになり、やがてスランプに陥ってしまう。難局に直面し、追い詰められて、悲壮な感じだけが漂うようになった。そして安井賞受賞の呪縛から逃れたいと思うようになった。
問題はどこに向かって逃げるかということであった。友人から、各国政府による給費留学制度の存在を知る。最低の生活が保証されながら、どこか外国で暮らす方法を探ろうと考える。
事情に詳しい人と相談するなかで、物価指数などを勘案して給費比率が最も有利な国を調べると、イタリアであろうということが分かった。さらに、イタリア国内の都市のなかでどこが天気がよいかと調べていくと、ミラノやフィレンツェではなく、ローマだということが判明した。
しかし実際の理由は、後述するようにルチオ・フォンタナの作品との衝撃的な出会いがあり、フォンタナのいるイタリアで制作をしたいという思いによるものだったことも分かってくる。
というわけで、高橋はイタリア政府招聘留学生の試験を受けることにした。その準備のため、イタリア語の個人教授を受けたり、新作の制作や個展を開催して資金を稼いだり、と忙しく過した。
イタリアへ行ったら、日本のしがらみを捨て去るため何もせず1年間過ごそうと計画を練る。そして郷里の支援者に購入してもらうおうと相当数の作品制作にも励んだ。高橋は、福山や名古屋での3回におよぶ個展を開催し、ヌーヴォ第3回展へ参加、さらに東京と松本のビルに壁画を制作するなど忙しく突っ走った。そして1963年、ついにイタリアに渡るのである。
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社
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