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エロスの画家・高橋秀の物語(8)【アートのさんぽ】#16


1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。そのイタリアで1964年にデビューしてすぐに、イタリア国内での評価を得て、確実なものにしていった。高橋は、イタリアでフォンタナの他、誰と交流し、どのような作品を作っていったのか。
 

フォンタナと高橋秀

 
高橋がイタリアで作品を発表し始めた時期のルチオ・フォンタナの活動を調べていくと、2人は比較的近いところにいたことが分かってくる。
高橋はイタリア国内で1964年から発表するようになり、フォンタナは1968年9月に亡くなっている。
フォンタナが1967年10月にローマのマルボロー画廊で個展を開催した時、高橋はそのオープニング・パーティーに参加してフォンタナと会い「ミラノに来ることがあれば、アトリエに寄るように」と言われたという。
高橋は、1965年にローマのスコルピオ画廊のグループ展に参加したのをはじめ、1966年、ヴェネツィアのカヴァリーノ画廊の個展、ミラノのナヴィーリオ画廊のグループ展、1967年、ヴェネツィアのカヴァリーノ画廊のグループ展、1968年、ローマのオベリスコ画廊主催の個展、ミラノのアリエテ画廊の個展にそれぞれ参加している。
 同時期のフォンタナの略歴を見ると、1962年、ミラノのアリエテ画廊の個展、ミラノのナヴィーリオ画廊のグループ展、1963年、ミラノのアリエテ画廊の個展、1965年、ミラノのアリエテ画廊のグループ展、ヴェネツィアのカヴァリーノ画廊のグループ展、ローマのオベリスコ画廊のグループ展、1966年、ミラノのアリエテ画廊のグループ展、ローマのオベリスコ画廊のグループ展に参加している。
こうして見ていくと、高橋の関わった画廊のほとんどでフォンタナも展示していたことが分かる。
 高橋は、前にも述べたように、同時代の作家の作品を積極的に見て回り、その影響のもとに制作するタイプの作家ではない。影響があるとすれば、形態的なものでも空間的なものでもなく、その考え方というものである。フォンタナの影響は、目に見える形ではなく、徐々に染み出るように作品の考え方として現われていた。

モノクローム絵画


  高橋秀は1966年、イタリアでの最初の個展をヴェネツィアのカヴァリーノ画廊で開催し、空間的な試みを前進させた《Superfici R.5.26》(1965年)などを発表した。

高橋秀《Superfici R.5.26》1965年

 高橋が、この画廊で個展を開催できたのは、いくつかの偶然が重なったからである。
前回述べた1965年のローマ日本文化会館でのグループ展に参加し、その時、高橋に興味を持った美術関係者たちと知り合う。そのなかにローマのスコルピオ画廊のオーナーがいて、同年の「形と存在」展に参加するように誘われ、出品した。
 さらにその展覧会を通して、カヴァリーノ画廊のレナート・カルダッツォと知り合った。
 高橋は、イタリア留学直前から本格的に語学学習していたものの、積極的に自己アピールできるほどではなかった。しかし、その作品の造形性と人間的な魅力でイタリアの美術関係者たちと繋がりはじめていた。
 この時の作品を見ていくと、安井賞を受賞した当時のマチエールを重視する表現から完全に脱し、独自の空間性をもつようになっていた。絵画における“ Superfici”、つまり表面性、平面性を意識し、画面をモノクロームに塗って、そこにイリュージョン(透視図法などで平面の絵画上に生じる錯覚や幻覚の効果)が現れないような作品に仕立てたのである。
 《日本の記憶》においては、日本の思い出につながるような格子戸のイメージが少しあったが、《Superfici R.5.26》においては、何のイメージも髣髴させないものになっている。そこに水平の凹凸の桟が走り、中央部分で2カ所が折れて窪んだような形となり、全体的に黄色一色で塗られているだけの作品である。
 黄色いモノクロームに塗ったのは、繰り返しになるが、絵画の表面性、空間性を強調して余計なイメージに惑わされないようするためである。過去の絵画を切り捨てたのだ。
 過去の絵画は、現実の何某かのイメージや印象をもとにして作られものであったが、それをすべて断ち切り、抽象画でもなく、絵画の表面だけで成り立つような空間を成立させようとした。そこには建築的な空間やレリーフ彫刻のような空間が成立していた。
 ただ高橋の場合は、それを冷徹に表現するのではなく、少し熱い気持ちをもって表現した。それが、黄色い色に表われていた。つまりその黄色は、ゴッホのひまわりの黄色であり、「黄色い家」であり、あるいは故郷の瀬戸内のみかん畑の黄色でもあったはずだ。
 高橋は、こうして空白の1年間を経て以後ずっと探し求めていた方向性、つまり即物的で、ニュートラルで、絵画の表面がそこにあることだけを示そうという表現をやっと手に入れた。
 これまでは、絵画において現実で得られる物質感、リアリティーを模索してきたが、そもそもそれ自体がイリュージョンであり、それを捨て去らなければと考えていた。絵画におけるイリュージョンとは、絵画を絵画たらしめると考えられていたもので、それを否定することは、絵画を否定することを意味していた。それは、絵画における三次元的なイメージの定着を決定づけるもので、平面とは違う次元を持ち込む手法であった。高橋は、これを退けて、平面という空間そのものを素直に見直し、絵画における建築的な空間性を追求することの面白さに目覚めたのであった。

カステッラーニと高橋秀

 
 その背後には、フォンタナにおける新しい空間概念の影響があったことは、前に述べた通りであるが、さらに、エンリコ・カステッラーニへの共感も見逃すことはできない。ちなみに高橋がミラノのアリエテ画廊の契約作家になった時、カステッラーニも既に同じ画廊に所属していて、作品展示などで一緒になることもあった。
 カステッラーニは、高橋と同年の1930年、イタリア中北部ロビーゴに生まれ、1952-56年、ブリュッセルの王立美術アカデミーで絵画と彫刻を学び、さらに建築を学んだ。ミラノに移り、ルチオ・フォンタナの空間主義の影響受け、1959年、ピエロ・マンゾーニと共に雑誌『アジムート』を創刊し、当時のミラノを中心とした 新しい芸術運動に参加した。1959年より“ Superfici”シリーズを手がける。
 “ Superfici”つまり「表面」はカステッラーニにとって大きな問題を含んだものであった。ステッラーニはそのなかで、画家がイメージをもって絵画に向かうのではなく、むしろ絵画に描かれるイメージやイリュージョンを捨て去り、新しい次元による絵画を提示しようとした。それはモノクロームの表面であり、イメージを超え、抽象性や物質性をも超える空間を実現したものであった。
 ルチオ・フォンタナを筆頭に、多くの作家たちもモノクローム絵画をはじめていた。カステッラーニは、表面に鋲などを使って凹凸をつけたり、庇を作ったりして、レリーフのようなモノクローム絵画を制作した。それはあたかも「観想の理想的な場所」といえるような自分と向き合う為の絵画であった。
 カステッラーニの《表面》(1960年)を見ると、それは通常の木枠にカンヴァスを張ったものではなく、木枠や木組みを設計に基づいて作っていき、そこに鋲や釘、木の桟などを利用して凹凸のあるレリーフ状に絹のカンヴァスを貼っていったものであることがわかる。

エンリコ・カステッラーニ《表面》1960年


 それは、絵画の制作手法というよりも、むしろ建築的な手法で精緻に作られたもので、当時のアメリカではハードエッジとか、シェイプト・カンヴァス(四角形のキャンヴァスでなく、変形されたキャンヴァスのこと)と呼ばれたタイプの作品の一種である。
 カステッラーニは、光に反射する部分と影の部分が織り成す、構築的な構成が作品の自律性を主張し、イメージに頼らない絵画のあり方を示そうとした。その作品は、照明の当て方により影の構成が変わり、その全体的な印象まで違ってくるので、その環境の変化に敏感に反応するものであった。また、同類の作品が並べると互いに呼応する新しい空間、環境を生みだすものであった。
 高橋秀は、フォンタナやカステッラーニの空間に触発されながらも、独自の空間を求めて盛んにモノクロームの作品を作った。
 1965年ころ、寝る時以外のほとんどをアトリエにこもり、制作に集中して膨大な数の作品を生み出した。高橋は次のように述べる。
 「モノクロームな仕事はだんだんと求心的で寡黙な方向にとんがっていって、とんがってとんがって息もできない、身動きもできない状態まで、自分を自分で追い込んでしまっていた状況でした。ふと気がついた時、そのとんがりが鋭角となって交差し、突き当たった壁の向こう側に突き抜けて鋭角が開き、バーと広がった解放感を発見したと言えましょうか。この辺りから、今の作品につながるスタイルができはじめて、作品をつくることが楽しくて楽しくてしょうがないという体験がありました」と。
 高橋は、新しい形の絵画の制作にのめりこみ、その方向性に自信をもてるようになっていた。日本で制作していた時は、画家仲間や画商たちとの付き合いや展覧会の打合せ、雑誌の取材対応など雑事も多く、なかなか集中して取り組めなかったが、イタリアに来てからは、自分から積極的に関わる時をコントロールさせえすれば、煩わされることも少なくなり、制作に集中できるようになったのだ。それが、「楽しくて楽しくてしょうがない」という言葉に表れていた。
 
ムリロ・メンデスと高橋秀
 
 高橋は、イタリアに来てさまざまな美術関係者たちと関わる機会を得ていったが、そのなかで高橋の仕事を最初に評価したのは、詩人で美術評論家のムリロ・メンデス(1901‐1975)であった。彼は、カヴァリーノ画廊の個展の時に序文を書いてくれた。
 メンデスは、ブラジル出身で1957年にローマに移り住み、ローマ大学で教鞭をとっていた人物で、1966年に高橋を「論争から創造展」(ローマ、カーサ・ド・ブラジル)に招待した。
 「カーサ・ド・ブラジル」とは、ブラジル文化会館がローマ中心部ナボーナ広場に開設していたギャラリーで、企画の展覧会に定評があり、若い作家たちの憧れの場所となっていた。
 「ここの企画展に参加したということが、作家の勲章のようなものになっていて、他からの誘いの目安のような役割ももっていたようでした」と高橋も述懐している。
 この「論争から創造展」は、イタリアの新人作家3人とイギリスの作家、そして高橋の5人によるグループ展であった。その時の高橋について阿部展也は次のように述べる。
 「彼は浮かばない顔をしていた。他のヨーロッパ作家の作品にみられる大きな空間の拡がり、その空間を支配している自然からの隔絶した精神のはりついたようなものが自分には無いというのである。物を画面に構築することの限界に明瞭につきあたったのである。このように偶然性の多い仮象の世界から隔絶を意識したとなれば、彼はこれまでの重荷になっていた自然的現実の破壊と、内部世界に胎動し始めた方向にどういう秩序を与えるのかということである。といっても早く自己の思考どおり動いてくれるものではない」と。
 高橋が悩みながらも、新しい作品に取り組み、ひとつの壁に突き当たり、もがきながら展覧会に参加していた様子が伝わる。メンデスとの展覧会を通しての付き合いのなかで、少しずつ自らの芸術の方向性に自信をもっていくのである。
 メンデスとの交流は、この展覧会に留まらずその後も続き、1966年のヴェネツィア、カヴァリーノ画廊での個展の序文の他、1968年のミラノ、アリエテ画廊での個展の序文、そして1970年にフランコ・チョッピが出版した1点ものの版画集「覗いた春」に詩を寄稿してもらったりしている。
 
レナート・カルダッツォと高橋秀

 もうひとり高橋を積極的に評価した人物がいる。既に述べたヴェネツィア、カヴァリーノ画廊の画廊主レナート・カルダッツォである。カヴァリーノ画廊の高橋の個展でのスナップ写真を見ると、ここに前述の阿部展也、1960年からミラノに在住する彫刻家豊福知徳(1925-)とともに画廊主のレナート・カルダッツォが写っている。

左より阿部展也、豊福知徳、レナート・カルダッツォ、高橋秀

 カヴァリーノ画廊は、1942年にレナートの兄カルロ・カルダッツォが開設し、1963年に兄が亡くなると、レナートが引き継いだ画廊である。カルロ・カルダッツォは、ヴェネツィアの企業家の家に生まれ、若い頃から美術品のコレクションに目覚め、1930年代にはジョルジョ・デ・キリコやジョルジョ・モランディ、マリオ・シローニといった作家たちの作品を集め、1935年にはカヴァリーノ出版をヴェネツィアに設立し、ギョーム・アポリネールやポール・エリュアール、ポール・ヴァレリーなどの詩集やアンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言、未来主義宣言などを出版した。
 カヴァリーノ画廊においては、ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、デ・キリコ、モランディ、シローニといった作家たちの展覧会を開催していた。1946年には、ミラノにナヴィーリオ画廊も開設し、1950年代以降の美術運動に大きな影響力をもつ有力画廊となった。
ここでカッラやジュゼッペ・カポグロッシなどの展覧会を開催したが、とくにフォンタナの1949年の個展「ブラック・ライトのなかの空間環境」は、ブラック・ライトという新しい技術を使った展示空間そのものをひとつの作品として提示した展覧会として美術史にその名を残した。豊福知徳は、このナヴィーリオ画廊の契約作家であった。

ルチオ・フォンタナ《ブラック・ライトのなかの空間環境》1948‐49年


 高橋は、レナート・カルダッツォとの付き合いの中で、1966年にカヴァリーノ画廊で個展、そしてナヴィーリオ画廊でのグループ展、1967年にカヴァリーノ画廊のグループ展にそれぞれ参加し、イタリア国内における評価を確実なものにしていった。
 
 
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

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