「なぜ私は書くのか」を書き終えてから、もう一回考えてみた
なぜ私は書くのか
昨日締め切りギリッギリで投稿した藤原華さん主催のコンテストのテーマがそれだった。
このテーマを見てから
そういえば、なんで書くことが好きなんだろうとちょっとだけ考えてみた。
日記をつけ始めたのは小学5年生の時だったと思う。ジャポニカ学習帳の日記帳を当時の担任の先生はクラスの全員に配った。
今日あったことを教えてほしい
毎日提出してもいいし、しなくてもいい。
いま思うとその時代にしてはだいぶ型破りな先生だ。
私はほぼ毎日先生へ提出していた。真面目である。
誰々がこう言っておもしろかった、むかついた、あいつがメダカを流しちゃったとか、飼ってるハムスターがかわいいとか、飼っている犬の好きな食べ物、休みの日にUFOキャッチャーでとったぬいぐるみのこと。
2年間書き溜めた日々はいまでも実家のクローゼットに大切にとってある。開く機会はぐっと減ったけど、実家に帰るとパラパラと見返すこともある。
ほとんど忘れてしまっている子ども時代のこと。
私のことなのに、私のことじゃないみたい。
それと同時くらいか、どっちが先だったか忘れてしまったけど、兄が仲良かった友達のお母さんが5年日記をつけている、という話になった。
このお母さんは私のことをよくかわいがってくれていて、私もすごく好きだった。
花より男子とか小学生女子にしてはちょっと大人な漫画を貸してくれたりもした。
5年日記ってすげぇ!なんか面白そう!
たったそれだけだったと思う。
高校生になった時には、5年日記も2冊目に突入した。
勉強に恋に部活に友だち、1日5行では書きたりず、別冊の日記がある。
別冊の日記は毎日ではないけど、
書き始めたら止まらなくて。
あの時代、SNSがあまり発達していなくてほんとうによかったと思う。
あの熱量でインスタのストーリーズやらXやらを更新し続けていたら、たぶん友だちがいなくなっていたと思う。
でもそうすることもできたはずだった。
そうしなかったのは私の中にある言葉にできない感情を見せることが恥ずかしかったから。
誰にも見せたくない有り余った感情をぶつけるところが、私にとっては日記だった。
数秒、数分では片付かない感情たちが、書くことで昇華されていく。
そんな5年日記も、社会人2年目から5年目くらいまでは書いていなかった。
単純にお金が無さすぎて日記帳が買えなかった。いや、買えなかったってことはない。
買わなかった。
毎日くさくさしていた。
こんなやりきれない毎日を文字に残したくはなかった。
いま思えば、その時こそ書くべきだったと思う。もったいないね。
だけど、誰かに向けた文章となるとなんだか苦手だった。
小学校の卒業文集はいま読んでもつまらない。
書くことがつまらない、という気持ちが全面に出てくる文章。
最低原稿用紙1枚半は書いてね、と言われたから1枚半で終わらせた。
空白の目立つ卒業する自分へのメッセージだった。
高校3年生の頃は受験で小論文が必要だった。
小論文の書き方なんかも参考書を読んだりした。そして自信満々に提出した小論文は添削され40点で返ってきた。
世の中とはつまんないものだなと思った。
当時は医療系の大学を目指していたので、課題文献はもちろん医療についてだった。
模範解答のある文章なんてつまらないな。ふるいにかけられるのに個性を出してはいけないな。
でも模範解答になぞって書いたはずの私の小論文はそれ以上につまらない。
当時書いた小論文はその場で破って捨てたし、指導を受けるのも1回きりで辞めた。
原因は小論文だけではないけど、もちろん落ちた。
でも日記だけは今でも続いているから、書くことは好きなんだろうね。
自分自身とのおしゃべりが好きなんだろうね。
なぜ私は書くのか。
私は私の為に残さなきゃ、という気持ちだけが飛び跳ねる。
私は今日も空白を埋める。
私は今日も誰にも見せることのない、自分への手紙を書く。
それがいつかの私への灯火になる。