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「ハード」と「ソフト」

いつだったか…、ああ、確か2019年の年末かな。宅飲みしながら、仲間たちと、人は「自己肯定感」と「自己評価」と「自己愛」の三角形の面積で生きやすさが決まるんじゃないかという話をして、これは真に迫るものじゃないかと盛り上がった。そのとき、私は「自己肯定感は低いのに自己評価は高い」という自分の感覚のギャップを目の当たりにした。

どこから生まれる発想なのかしらとずっと考えていたのだけど、それって自分を「ハード」と「ソフト」に分けて考えるくせ(認知行動療法でいえば「スキーマ」というもの)によることで説明ができるのではないかと最近気づいた。

自分の身体(≒「ハード」)は、強くも美しくもないし、コンプレックスがたくさんある。昔から運動が苦手だということもあって身体性には特に自信がなかったし、これでからかわれることもあってより認められなくなった。いつしか自分の身体は醜いものだと思いはじめた……、のかもしれない。ともかく、自分が「ガワ」だけで評価されることは一生ないと思っていて、理由なく息を吸って吐いている物理的な生命としての存在価値は認められない、という気持ちがかなり強い。「自分を美しく見せる」ということにも無頓着で、それどころか、むしろそれを増長させるような行為(たとえば化粧とか「姿勢を正す」とか)には嫌悪感すら覚えていた。

そんなこともあって自分の「ハード」を伴う行為は極力遠ざけてきた。「ハード」を前提とする生命体として、自然の摂理から外れた行動をとってきたことになる。「ハード」が自己肯定感に強く結びつくものとすれば、自己肯定感を高めることを拒否してきたと言いかえてもいい。

反面、自分の精神(≒「ソフト」)にはそこそこ価値があると思っているようだ。人生を選び取ることにはそこまでためらいがないし、後悔することもないし、審美眼を信じている。仕事ができる自分をきちんと評価できる。自分という「ハード」を飛び出した「ソフト」のかけらである詞や曲はきちんと気に入ることができる(自分という「ハード」の中にあるうちより、外に出した方がより美しく見える)。

しかし近年(というよりはもっと最近の話だけど)、「ソフト」だけでは限界があると感じることが増えた。もっとも直近で感じたのはピアノの演奏だ。当たり前だが、身体性を無視していてはプレイできない。柔軟性も筋力も「脱力」もいる。「ソフト」では「ハード」を凌駕できないのだ。

そもそも「ソフト」を磨くために新しい体験をすることだって、「ハード」が伴わなければできないことも多い。「ソフト」が「ハード」に影響することも、「ハード」が「ソフト」に影響することも、当たり前に理解はしていたが納得はしていなかった。自らの醜い「ハード」を磨くという嫌悪感に耐えられなかったし、高貴なはずの「ソフト」が「ハード」に貶められるのもイヤだった。しかし、こうした強固な拒否は今後の人生を豊かにする上ではどうも効率が悪そうだ。

スキーマをかえることは難しいけれど、少なくともすこし寛容になれるように。醜い自分の「ハード」を高めることに目を向けて、少しだけでもプラスに転じるといいなと思う。オチなし。

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