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【創作】Linger

 3月は、別れの時期だ。そういうこともあって、とりあえず、付き合っていた三谷くんとは別れてみた。何か変わるかと思っていたけど、風が吹いて、空が暗くなって、電柱の上に取り付けられた蛍光灯が白く光るので、なんだ、何一つかわらないや、と思う。
 三谷くんはびっくりしていた。そりゃそうだ。昨日まで仲良くLINEもしていたし、一緒に帰ったし、とくに喧嘩もしなかった。
「何かあったの?」
 三谷くんはつとめてゆっくりと、とびきり優しく、そう訊いた。そのことに気付かないふりをして、
「私、平戸のことが好きかもしれない」
 と言った。三谷くんは一瞬だけ表情を固めた。
「それ、本気?」
「さあ、わかんない」
 曖昧で無責任な私の答えに、一発ぐらい殴ってくるかと思ったけど、三谷くんはただ苦笑するだけだった。私が三谷くんだったら絶対殴る。一発とは言わず、何発も。けれど、三谷くんには私を殴るという選択肢はないようだ。ただ、そんな寂しげな顔をするぐらいだったら、殴ってくれた方がマシだった。

 久しぶりに一人で家まで帰っていると、家の前に平戸がいた。玄関口で座っている姿は相変わらず忌々しい。
「あれ?一人なの?」
 平戸はきょとんとした。が、それはきょとんとした体を装っただけだ。つり上がったその薄気味悪い口元が隠せていない。どこからか私が三谷くんともう一緒にはいないことを嗅ぎつけて、家の前に座っていたに違いない。ため息をつきながら、しかし、特に抵抗なく平戸を家に上げる。
「三谷と別れたの?」
 私の部屋のちょうど真ん中に置かれた折りたたみ式のテーブルに向かう形で床にどかりと座って自室のようにくつろぐ平戸が、心底嬉しそうにそう聞いた。でもそれは、平戸が私のことを好いているからではない。
「うん」
 私は今、死んだ魚のような目をしている。そんな私を見てますます嬉しそうに顔を輝かせる平戸は、用意していたナンセンスな質問を投げつける。
「悲しい?」
「どうかな」
「なぐさめてほしい?」
「いらない」
「じゃあ、何ならいるの?」
「平戸以外の全部」
 平戸の問いにこれまたナンセンスな返事をしながら、冷蔵庫から2Lペットボトルに入ったおいしくないお茶を取り出し、既に平戸用となったガラスのコップに注ぐ。自分にはキャラメルフレーバーの紅茶をいれるためにやかんを火にかけてから、平戸の目の前にコップをおいた。乱暴においたので、お茶がはねて少しこぼれた。私は床に散らばっていたクッションの1つを持って平戸の正面に腰を下ろす。
「俺のこと好きなの?」
「まさか」
「三谷にそう言ったくせに」
 平戸には私の行動がすべて筒抜けだ。わたしはギュッと絞られたような感触のした心臓を胸の上からそっとなでた。
「別れるならそれが一番手っ取り早い言い訳だっただけ」
 ぼそりとつぶやいた私に、平戸は乾いた笑いをよこした。
 平戸はもうずっと、ずっと私の前をうろついていた。幼稚園の時からだ。生まれたときから隣にいて、わたしと一緒に歳をとった。平戸は私にしか喋りかけなかったから、必然的に私が平戸のおもり役になった。周りからは私も平戸も変な目で見られたけれど、私が部屋の外で平戸を無視するようになってからはそうしたこともなくなった。
 二十歳になった今も、平戸は未だに私のそばにいる。いや、そばにいる、なんて生やさしいものじゃない。私の一挙手一投足を知っている。把握されている。当たり前のように、人生のすべてを平戸と同じ場所で過ごしていた。事実に気付いたときには、もういろいろなことが手遅れだった。
 三谷くんは、私や平戸と違って大人だったし、考えにも態度にも余裕があった。平戸と私のことを知っても、大半の人とは異なり、気持ち悪いとは言わなかった。そして、私が好きだから付き合ってほしいと言った。
 理解できない。私のどこを好きになったんだろう。私だったら絶対、私のことを好きにはならない。でも、好きと言われたことは、単純に嬉しかった。それに、平戸との不毛なやりとりには、ずっと前から嫌気が差していたのだ。
 三谷くんと付き合ったら、何か変わるかもしれないと思えた。
 でも、それはやっぱり、思えただけだった。太陽が隠れれば少し肌寒くなって、空が暗くなれば小さな星が光って、平戸は私の家でおいしくないお茶を前にせせら笑う。結局何も変わらない。おもしろいくらい、何一つ。
「俺、お前のこと好きじゃないよ」
 笑った表情のまま平戸はいつもの調子でそう言った。平戸はいつも嘘を吐かない。だからこの言葉は真実だ。
「知ってる」
「なんで三谷と別れたの」
 私は、三谷くんと別れることでこのどん詰まりの状況が変化することを望んだ、とは言わず、
「知らない」
 と言うほかなかった。悔しくなって
「どうしたらいいの」
 と言えば、
「さぁ、知らないよそんなこと」
 と、心底疎ましそうに、平戸は頭を掻く。
「平戸は何がしたいの」
「別に、なにも」
 この先、どうすればこの状況が打開できるというのだろう。私にはそのすべが見えない。
「俺は、お前のこと、好きじゃないよ」
それでも、念を押す平戸を、私は殴らない。殴れない。そこには、ぽっかりとあいた「空間」があるだけだ。帰ってくれ、とも言わない。平戸はこの場所から帰れもしない。今日もまた私は、”平戸はいないんだ”という事実を目の当たりにしながら、おいしくないお茶をシンクに流す。

 ふと、三谷くんの顔がまぶたの裏に浮かんだ。でも多分明日には忘れているだろう。
「私も、平戸のことなんか好きじゃない」
 平戸からは何も得られない。だから平戸以外から何かを得るしかない。しかし状況はこのまま、私は平戸以外からも何かを得ることはない。 
 三谷くんが私を殴ったら、世界は劇的に変わったかもしれないな。クッションについた毛玉をぶちぶちと取りながらそんなことを考えていると、やかんがいつものように笛を吹いてお湯が沸いたことを知らせた。

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