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矛盾という優位性

最近、ダンスプラクティスの動画を日に何時間も再生しているのだけど、いつまででも見ていられる。なんであんなに美しいのだろう。

見ていて考えたことがある。AIや科学技術の発展により音楽や絵画などはもはや代替されうるアートになってしまった今、芸術はより身体性あるいはそれを伴うパフォーマンスを求める動きが強まるのではないか。ダンスはそのわかりやすい例であるが、音楽なら演奏するということ、人間の声で歌うということ。アートなら目の前にあり手で触れること。など。機械でどんなに同じ音が出せたって人はライブに行くだろうし、バーチャルでどれだけ鮮明に(あるいは本物以上に)絵画を体験できたって、人は美術館に足を運ぶだろう。
技術の発展により、アートはむしろプリミティブな方向性へ進もうとしていると仮説立てられるのはおもしろい。

1~2年前ぐらいから強く意識していることがあって、それは「人間は矛盾なくは生きられない」ということだ。インターネッツが過去の人間を無限にアーカイブするから、”正義”に心酔している人間は過去の発言を論ってその矛盾を声高に指摘するけれど、そもそも人は時間とともに考え方を変える生き物だし(永遠に夢が「仮面ライダーになること」だったら大概の人は困ってしまうだろう)、そうした考えの変化は「成長」とポジティブに名付けられることもある。
まあ、時間が経たなくたって、常に自己の中に矛盾はあるものだ。勉強しなきゃいけないのに部屋を片付けてしまうし、どんなに悲しくても目の前で人がすっころんだら笑ってしまう。もっと深い部分での矛盾もあって、たとえば精神が「恋愛したい」と思っていてもある理由から身体が性的なつながりを拒否することだってあるし、どんなに心が遊びたがっていても40度の熱があればそれも叶わない。大小問わずこうした矛盾をはらんでいて、それが「人間」というものだろう。

特にビジネスの場面ではよく「物事を論理的に考えましょう」と言われる。もちろん必要なことではあるのだけど、忘れてはならないのは「人間は感情を0にして考えるのは不可能」ということだ。人間という箱の中に生きて、脳という限りあるものが感情も論理も管理している以上、それはグラデーションになっていて、それこそ機械じゃない限り人は真っ白と真っ黒を2つに分離して考えることはできない。つまり、論理を考えるとき、より「論理的」に考えたいなら、感情も考慮して考えたほうが「矛盾」がない。

翻って、こうした「矛盾」(従来はウィークポイントですらあったもの)をむしろ肯定的に捉えていくということが、Human Beingとして生きる上で必要なこと、そして、求められていくことなのではないだろうか。
技術を手に入れた人間が次に手に入れるものはある種前時代的な価値観であって、しかしそれは後退ではない。コンビニ弁当とまったく同じ味付けだったとしても、身近な人が手作りしてくれたもののほうがおいしく感じることについて、悲観的な意味合いで「矛盾」をとらえて接する必要はないし、そこにわざわざ注意書きを付け足す必要もない。

先のアートの面でいえば、もう何もかもデジタルで表現できるけれど、それでも手で触れること。何度も絵の具を塗り重ねること。生のピアノで演奏すること。何十年もかけて演奏技術や身体性を身につけること。そうした無駄のある矛盾に、結局人は感動してしまう。人間は人間の身体性の中で生きて死ぬ。その箱の中にいる人間という生き物が心や体を揺さぶられるものの大きな要因は、五感に直接響くこと。フィジカルであること。ストーリーがあることに他ならない。

私自身はフィジカルに全く優位性がなくて、「ハード」と「ソフト」なら間違いなく「ソフト」に全振りして生きてきた側の人間なので、今自分のたどり着いた結論は非常につらいものがある。

ただ、この脆弱性を楽しむことで、人生がより楽しくなる予感はしている(この事自体も自分が持ちうる矛盾の一つだ)。
人間というのは制限がある中で楽しみを見つけることには長けている生物でもあろうから(数々の文化はそこから生まれた)、矛盾という優位性を味方につけてサバイブしていきたい。

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