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もしも命が描けたら・2

初見感想はこちら。


遅くなっちゃいましたけど、その後の感想や解釈もまとめておきたいと思います。

2回目以降はYOASOBIの曲を改めてちゃんと聴きとり、書き起こしてみて驚きました。こんなにも冒頭でストーリーを表現してしまっていたのかと。

私は、歌を聴く時に最初はメロディとライブやMVであれば視覚の情報が先で、その中にひっかかるワンフレーズをみつけて、またリピする…ということが多い。

なので初回は歌詞までは追っていなかったんです。まさかの冒頭に割と壮大なネタバレでしたね…。

実際会場で聴いた方は座席やスピーカーの音の響き方でどこまで聞き取れたかわからないですが、初回で聴きとりたくなかった方もいたかも。そう考えるとこの演出も、斬新ではありますね。

名前の深読み

星野月人(げっと、と読ませるのも意外でした)

月山星子/空川虹子

光陽介

改めて名前を深読みしてみました。おさむさん、登場人物にわりと「単純」とも思える名前をつけることが多いですね。

「光陽介」は太陽の「光」 陽介。

雨上がり、太陽に照らされて空に現れる美しい「虹」は、光がなければ、昼の空にかけることができない。

夜空に浮かぶ「星」と「月」、夜だけ明るく自ら光る「星」。そして「月」は明るい空にも昇るけど、太陽に照らされなければ輝けない。

陽介は、少なくとも虹子と月人それぞれに必要な"出逢い"だったんじゃないかな…

月人の母親のこと。

幼い月人は確かに過酷な経験をしてしまった。私個人が親として考えるのは、いくら月人を守るために離れたとしても、もう少し、傷を残さないような、せめて小さくする方向で母親としてなにか残してやれなかったのかなぁ、とは思ってしまう。それまでちゃんと愛情の積み重ねを感じられるならばともかく、ずっと笑顔のなかった母親と、最後に大好きなご馳走をたくさん食べられたこと、絵を好きだといってもらえたってこと、そのことだけを支えに生きていくのは、10歳そこそこの子にはちょっと辛くないか。

でもおじさんおばさんは優しかったし、そこで家族として過ごすそのこと自体は不幸ではなかったと思う。もちろん、本当の意味では笑えない月人が無理やり笑ったりと自分で居られなかった上に、結局おじさんも居なくなってしまうことはまたしても重なりすぎだけど…。

似た環境にいた星子さんのように、本当は月人のおばさんも無理してることには気づいていたのかもしれない。星子さんの生き方は、ある意味でありえたかもしれない月人の姿。でもおじさんの事で、それを伝えることもできなくなっちゃった…のかもしれない。

…言いにくいことでも口に出さなきゃ結局伝わらない愛もあるよなぁ。これは、難しいけど。

ところで「自分で自分を褒められる」星子さんは、自分で光ることの出来ない「月」人よりも、自ら明るく輝いている。ふたりが惹かれあい、ふたりでいる場面は本当にあたたかくて好き。好きなんだ……その分、辛い。

罪悪感と後悔と

月人は、星子さんの命を奪ったのは僕のせいだという。虹子さんは事件になってしまったお客さん2人の関係を知りながら、加害者と被害者にしてしまったことを私のせいだという。

そして陽介は人の命を奪ったけれど虹子さんを守ることができた。その分自分の命を削られたのだとして、それでもいいんだ、虹子さんじゃなくて自分でよかったと受け入れる。

自分のせいかもしれないという罪悪感や後悔や、起きてしまったことの受容、諦め。さすがにこんなシビアな出来事は日常にあってほしくないけれど、誰でも経験する感情ではある。

ちなみに、一番胸に刺さって涙がでてきたのは、星子さんの書いた月人の説明書のところ。どれくらい月人のことをみつめ、理解しようとしてきたかがわかる。月人自身もきっと知らなかった自分の事。彼の母親ですらこんなに理解してくれていただろうか。

でも、そのあと自分を責める月人のセリフが気になる。

「君(月)は気づいてたんだろう?」「"かあさん"の人生には僕がいらなかった」「僕は要らなかった」

母さんにすら必要とされなかった僕のせいで、星子さんがいなくなった…と思ってる?

「キミのメッセージに気づかなかったから星子さんを僕のせいで消しちゃったじゃんか!」

そんな。月(三日月)は月人に、大切な人になんて出会うな関わるなとメッセージを送っていた?月人と星子さんは出会わなきゃよかったと?

そうかなぁ。死んでしまったらその人は帰らない…そうだとしても、幸せな時間を共有できた人と、出会わなければよかったなんて、思いたくないし、思って欲しくないよ…。

誰かを喪っても自分は生きてるんだよ…。

個人的な考察

死ぬことを失敗し、三日月と話せるようになり、冒頭のシーンにつながるのは不思議な感覚だった。初見だと「あれ、このシーン観たな」っていう感じだった。

スケッチブックを手にした月人はYOASOBIの表題曲が流れる中、描く。

♪生きる喜びを与えてくれたあなたにさよならする相手は、星子?

霧のような町に来て、♪やっとまた逢えたね、と思う相手は、お母さんのこと?

景色が変わり、「生きて」いる実感を得る月人。

一見するとこのシーンはまったく反対の事だけれど、私は、あの時自らこの世にさよならした月人は、助からなかったのだ、と思う。

命を与え終わったら「星子さんに会える」と月人は約束したつもりでいたけど、三日月の「キミ」はそうだよ、とハッキリ言わなかった(はず。少なくともすんなりと、そうだよ逢えるよ、なんて言わなかった)

「死のうとしてから、虹子さんに会うまで何も食べてなかった」いくら最初は精神的に追い詰められていたとしても、スケッチブックを手にしてから何も食べずに描きながら街をさまようことはできないだろう。(そもそもファンタジーだよと言えばそれまでだけど、「食べる」と「生きる」は繋がってるはず。)

「虹子さんは君のことをよく見抜く。…さすが」

お母さんと虹子のワンピースは一緒。月人が名乗ったときの表情、何度か「月人」と呼ぶ虹子。母親の名前は知っててもおかしくないはずだけど、気づかないという矛盾はこの際、置いておく。

虹子さんへのきもちが芽生えた、それは星子さんへの気持ちとは違う

それも言葉通り捉えてみた。「恋愛」ではない感情。

ずっと月人から一方的に話をしてきた…と思っていたけど、その思いは三日月に届いていて、その力で、自分の命が終わる直前に、過去に戻って母親の未来…母親の「今」を変えることができたのではないかっていうのが、私の一つの解釈です。 

ところで、傷害致死、もしくは殺人と死体遺棄の判例を調べてみたりもした。数年間逃げているし、虹子も一緒に遺棄したなら罪に問われなければならないんだけれど…虹子さんの罪のことはおいておきます。

月人13歳時点で陽介が自首し、裁判後服役したとして、刑期は15~20年だろうか。虹子と陽介が再会するまで、虹子は一人店を守る。虹子が母親だとして。息子=月人と、陽介を思いながら店を守りしばらく一人で生きていく。

…ちなみに埋められたのは前の夫=月人の父親、でいいんだよね…?(なんてシビア)最終的に酷い男になってしまったけど、押し入れに残していたものを思うと、かつては愛した男には違いなかったような気がする、それがまたなんとも複雑なところ。

その間、月人は育ての父を亡くし、高校で絵を描く楽しさに再び目覚め、しかし夢を諦める。ただ…もし絵の道に進んでいても、必ずしもそれが幸せな道だったかはわからないんだ。どれほど好きで選んでも、芸術の世界に飛び込んでからはきっとこれまでの価値観は見事にひっくり返されるし、自分の作品と(内面と)向き合うことは楽ではなく、きっと苦しいし、それはそれで茨の道だって事もある。でも、どの道を選んだとしても、未来を変えられるのもまた自分次第だったと、思うんだ。

その後月人が社会人になって、夢を諦めたということだけみると、辛い気持ちにはなるんだけど、自分なりに周りとの距離をとり、それに心地良さも感じ、実直にクタクタになるまでしっかりと仕事をする。それなりによい生き方、働き方は出来ていたのではないかとも思うんだ。

そんな時星子さんと出会って確かな幸せを感じ、一緒になるのは30代。出会わなければよかったなんて無いよ…。

月人と星子が一緒に過ごすようになる頃には、同軸の世界と仮定するなら虹子と陽介はそろそろ再会出来る頃なんじゃないかなぁ、なんて思ったりしたんです。

そういえば星子と虹子の声と表情は、すがすがしいほど全く違うね。

生と死の矛盾

生きたいと思うこと、大切な人に生きて欲しいと願うこと、人がいつか死ぬのは必然だけど、死にたいと思う瞬間も、誰かに死んで欲しいとまで思ってしまうことだって時にはあるかもしれない…

カーネーション(花)は枯れるのが当たり前で、ずっと生き続けるのもかわいそう。「枯れるのは当たり前、枯れて良かった」

月はずっと満ち欠けを繰り返しながらずっと存在し、みまもりつづけてる。フルムーンは「満たされている」けど、これからは減っていくだけ。三日月は「未熟」だけれどこれからまた満たされていく。なんて思ったりもして。繰り返す。

命を奪ってしまった陽介と、大切な人を失い死にたくなった月人が、居場所をみつけて生きたくなった「わがまま」な気持ちと罪悪感。

そして虹子も、もう死んでしまおうと思ったときに、あと一日、いつ死んでもいい、でもそんな日々のあと一歩を与えてくれた人がいたっていう、陽介のような存在は、出逢いは、人生を変えるんだと思うんだ。

自分を犠牲にして誰かを生かすことって、私は正直不毛だと思ってる。まず自分を大事にして欲しい、自分の人生が楽しく、幸せでいなければ人の事も幸せにできないんじゃないのって。虹子がいう「むかつく」「死んで悲しむ人がいることを考えてない」っていう言葉にも強くうなずいた。

でも、もし、悲しむ人がいない場合は?もしくは、自分にはそんな人はいない、と思っている場合は?

夢を追うこと、愛することは「シアワセ」だけど裏切られたら辛い、それが無ければ淡々と生きられる。それでも愛してしまう

月人にとっての絵を描く事も、10代のその時は幸せでも、続けて行けば裏切られたかも知れない。それを諦めることで淡々と生きていた。でも、絵を描く事そのものも、愛していたんだ…としたら。

虹子さんの大切な人は、陽介だけではなくてもうひとり、それはやはり息子なんじゃないのかな

ぼくはきみであって、きみはぼく(境目が曖昧になっていく)。
虹子と一緒にいたかった陽介は言う、「君は気づいていたんだろう?」

え?君って誰なんだろう?

小道具は少なくてほとんどマイムなのに、陽介が、ハサミを小道具として持ってるのが少し怖かった。突然消えて再び急に現れた陽介に「何しに来たんですか?」と聞いたとき「逃走犯だからさ」なんて何気なく言う。軽くて陽気に見えていつだって真剣な人だ。

自分を責めてしまうような不幸な出来事も

「仕方がない」ですませられないことがいっぱいある。
自分のせいで誰かを不幸にしたと思うなら、他の人を幸せにしましょう

この2年、そして10年前の震災の時も、そういう思いを持つ人がたくさんたくさんいて、良いことも悪いことも、どうしようもない思いがぐるぐるぐるぐるしていた気がするんだ。

月人に宿った愛の種。芽吹いて育ちはじめていた確かな愛(恋愛とは限らない)。伴走するといったのに月人は拒否される。

世の中って不公平、バランス悪いと虹子は言うし、
生きることはしんどい、世の中は不公平、バランスが悪いって月人はいうんだけれど。

最後に気づく。

幸せになれるひとと不幸になる人が決まってる? 違う。出会いで変えられる 生まれたことには意味がある その意味や価値は出会いによって変わるんだ

しんどいもの同士寄りそう事も、誰かに否定されることはない。寄り添って生きていくことも人生だ。

命を描くのは楽しい。もう悲しい絵はかかない、そして笑っている陽介を、命を描いた月人。

虹子さん、虹子さん…かあさん!

この叫びも、公演の前半と後半では違ったと聞いた。きっとそれぞれの受け止め方に正解はない。圭くんが月人としてのせた思いも、日によってきっと違うのだと思う。

母親の笑顔と、陽介さんへ笑って生きて欲しいと願った月人は、母親の胎内(のような場所)にもどっていったんじゃないか、と思った。

そして

「僕」は月に。月は「君」を照らす。

「君」は「僕」をみる幼い月人?へ言う。

「絵を描くんだ」

YOASOBIの「もしも命が描けたら」

最後に「やっと会えた」のは誰が、誰に、なんだろうか。

そしてひとり あなたのこと 母のこと 君のこと思い
目をつむった 長い長い旅の終り やっとまた逢えたね

逢えたのは、幼い月人自身…なのかもしれないって私は思った。

もう一つの月人の人生。だとしたら、今度はどうか、長く生きて。たくさんの出逢いで自分の人生を変えて。できれば身近な人が大きな悲しみに包まれることのないように。大切な人と末永く生きられる人生であってほしい。

おさむさんらしさ

おさむさん、(特に圭くんが出る作品で)オリジナル脚本を書くときに生死や病や複雑な家庭環境をテーマに使いがちじゃないですか…?本来であればお腹いっぱいだよって言いたいところではあるんです。

注:ディスってないです(笑)でもすぐ死ぬし病気にするしゾンビ…

ゾンビはともかく今回全部盛りでは。これでもかの不幸設定。

本来であれば私の好みとしては正直もういいよ、ってなるとこなんですが、そこをなんとも言えず絶妙に混ぜ込んで料理(演出)しちゃうのがおさむさん節で。キャスティングされる圭くんをはじめ、今回は聖さんと麻璃央くんの力量で作品になってしまうなって思う。

こう、役者ありきであることを批判的にいう意見もしばしばみるし、それもわからなくはないんですが、ここがおさむさんなりのあてがきの無茶ぶりさと、信頼感とで成り立ってる部分かな。

こんなシビアな設定にやられてたまるか、って思いつつ心に刺さってしまうなにかがある。

学生さんあたりに、たった3人のキャストで演じきれるこの作品を、是非演ってみて欲しいと思ってもみたんだけれど、前半の月人を、単純なセリフの量の問題ではなく、実際に観客を飽きさせずにひきこむのは相当大変だし、それこそ「圭くんへのあてがき」たる部分であろうな、とも思ったり。でも逆にアマチュアだからこそ、もし脚本が発表されたら、客前でなくていいから、ワンシーンだけでもやってみると色々発見がありそうだな…って思ったんですよね…テーマが普遍的なので。

私は自己犠牲のもとに誰かを救うなんて考えは好きではないのは変わらない。でも大切な誰かのために、身を捧げてもいいほどの思いを持てることもあるよなぁ。でもそれほど大切な人ならば、捧げて失うよりも、痛みを伴ったとしても寄り添って一緒に生きられるほうがいいな。

生きることは確かにしんどいかもしれない、でもそういう一日をなんとか生きて、生き延びて、その先に何かを、出逢いを得ることで未来は変えられると信じたい。そんな作品でした。

なんて。こんな綺麗なまとめ方をしたくないくらい色々考えさせられます。何度も繰り返し、同じ作品の違うお芝居を観ることが出来た方は、また違う感想を重ねたかもしれないですね。

圭モバ特典のポストカードの月人さん。良かった。

余談

「カーネーション」は母の日の花。

輪廻転生のことを Reincarnationって言いますね。語源は諸説あるようなんですけど、私はリインカーネーションって聴くと、必ずカーネーションを思い浮かべます…。

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