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『オフィーリアは川の人魚であった。彼女が死んだのは誰も彼女の声と尾鰭を交換しなかった為である。』(未完成)

そうゆう絵を描いた。絵の話をするのが野暮なのは知っているし感じているが、書く。

オフィーリアを題材にした絵は数あれど、その中でも有名な物がこのジョン・エヴァレット・ミレー作『オフィーリア』だろう。

この美しい絵はシェイクスピアの戯曲『ハムレット』のヒロインオフィーリアを描いている。

ヒロインは、気が狂ったー実際は狂っていないのだがー婚約者が父を殺してしまったーオフィーリアの父だと気が付かずーことに心を痛め、狂気に陥り歌や詞で話し始め、上った木が折れて小川に落ち溺死してしまう。

文学的にも美しく、絵画の題材としても多くの画家に選ばれる理由がわかる最後だった。

そこに続こうではないかという理由で書き始めたが、描いている間に物語を考えずこの絵を見て感じた。

美しい。

ドレスが水に浮かぶ様子や、水と手の境目や、生き生きとする植物と、死んだ女性という組み合わせも綺麗だ。煌びやかな胸元の飾りも美しい。

もしかしたらと妄想する。

彼女は、かぐや姫のような存在で、ここに生まれるべきではなかったのではないか?
そんなことを思い解釈を編集する。

自分の世界がそこにないことに愛する婚約者に実の父を殺される事で気がつく。“あちら“でしてたように話すが誰にも通じない。おかしいと思いつつ小川を見て、広い水の中、自分の故郷を思う。

吸い込まれるように小川に落ちると、小川は冷たく肌が水に馴染むのを感じる。泳ごうとヒレがあったはずの体をくねらすが、パニエが、ドレスが、髪飾りが水を含みうまく動かない。

重々しく苦しいものに縛られていたことに彼女は死ぬ間際に気がつく。体を緩めると、残酷なまでに体が水面へと浮かび上がっていく。それは彼女が人間であるという事を象徴するかのように、胸を強く押し上げる。

彼女はその目で青々とした空を見上げ、泳ぐべき道を見つけそちらへ体をくねらせ、美しい尾鰭を靡かせる。

自分の生まれるべきでない世界に生まれてしまったという感覚は感じる人は少なくないと思う。自分がいるべきでない場所。自分と違う肉体や他人の狭い理解。

「貴方の目に映るその肉体に私はいるか?」

そう思うことがある。ずっと匿名と言っていたことはこの、肉体と切り離すことの出来た魂ー今は厚みにかける言葉だがーという意味をはらむのかもしれない。

重々しい、魂の欠落した自分の肉体にくっついているだけの飾りを取れれば、私たちはもっと自由になれるはずだった。

ただ、落ちた小川があまりに肌に馴染むから泳ぎ出してしまって、気がついた時には息も絶え絶えになって、息を吸えばお前は人間であると嫌味ったらしく説教を垂れるかのように体が浮く。そこで生きながらえてしまっている。


解釈の所まで話を戻すと、自分で解釈をつけることでいっそうその絵が綺麗だと思えるということ。(戻らない気がしてきた)

ある人が絵のことを窓のようだ。と言っていた。

絵は窓である。見る度に景色を変え眺めていると変化する。内面的な窓である。

いい言葉だと思う。見るたびに解釈を変えることはいいことだと思うし、それでまた違う絵ができるというのも面白い。

だから、今絵を見ない人も絵を見てみるといいと思うのだ。何となくふらっと見た絵が何だかわからないけどグッとくることがあると思う。

本物の絵を見るということは…例えばアメリカの景色を日本にまるまるそのまま持ってくることはできないが、絵はできるのだ。

その絵が持つ雰囲気や、そのエネルギーごと持ってきて見ることができる。
昨日見たテレビで0

魔女は見えないものと見えるものを引き合わすことができる人、なんだ

と、言っていた。

そんな感じで、絵は見えるものでありながら、見えないものも一緒に持っているから。いつまでも人の心を打つんだと思う。

『オフィーリアは川の人魚であった。彼女が死んだのは誰も彼女の声と尾鰭を交換しなかった為である。』
(未完成)

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