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【ココロの旅#78】"働く人"-素的視点から

 こんにちは、今日は節分、明日の立春に備えた行事をする人も多いでしょう。ステイホームは暫く続きそうですが、皆さんがお家で新しい季節を迎える良い時間を過ごせますように...

~改めて思い起こされたもの~

●その横顔は

昨春からの新しい生活様式によって、家から一歩外へ出たら、他人の顔全体を"リアル"で見ることがほぼ無くなりました。街でも職場でも、オンラインでもマスクをしている人を時々見かけるほどです。

先日、散歩をしていて、本当に久しぶりに「働く人」の顔そのものを、ほぼリアルで見ました。それは、鉄材を運ぶ大型トラックの運転手さんでした。

さすが大量の鉄材を運ぶだけあって、トラックは高さも荷台も巨大、一人暮らしアパートの一部屋分はゆうにあろうかというぐらい。運転席もアパート2階に匹敵するかと思われるほど(大袈裟?)の高さにあって、こちらからも運転手さんの姿がよく見えました。

偶々、進行方向が同じであったため、そのトラックと私は目の前の赤信号が変わるのを待っていたのですが、運転席に一人座っているその運転手さんの横顔に思わず見入ってしまいました。

それは、その、イケメンとかいう美醜基準ではなくて・・・

はて、はて、一体何なんでしょうか?

●素的視点から

それは、なんというか、『働く人』の持つある種の生命力のようなものを、本当に久しぶりに、ほぼリアルな『顔』を通して見たのだと思います。

日々、エッセンシャルワーカーの方々の貢献を肌で感じている中、あの運転手さんの表情に出合って、更に「労働=美徳」というようなキレイゴトや概念的なものは一切取っ払ったような、『働く人』そのもの姿や在り様にを改めて気づかされ、心惹かれたのでした。

『働く』という言葉が「はた(傍)をらく(楽)にする」という利他的な要素を持つということは良しとして、実際のところ、この社会では、むしろ「仕事」という、人々が一定の時間と労力を提供する対象の方が前面に出て大きな『顔』をしているような感慨を持つことも多くあります。

「仕事」という言葉にも人偏が付いているけれど、その言葉は"コト(=モノ)"で終わっている。
一方の『働く』にはチカラが添えられているように人間の血潮が通うような熱のようなものを感じる。

どんな「仕事」にも、その背後には無数の『働く人』がいるというのに。

ここ数年の働き方改革などを見ても、『働く』こと、つまり、人そのものがよりフォーカスされるようになっていますし、様々な社会的要因からも、そのような動きに、ますます追い風が吹いています。
同時に、この一年で、命の尊さと儚さと脆さが現実味を帯びて迫ってくるようにもなりました。

人との直接的な接触が減ったからこそ、あの運転手さんの『顔』が、人が、私が『働く』ということの意味を改めて思い起こさせてくれたのでした。

<今日の美>

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