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a quiet talk-2020/7/9

普段からよくラジオを聞いている。家でも外でも、場所が許せばほぼ終日聞いている。スマホのラジオアプリは、手軽だし音質も良く、何より過去の番組が好きな時に聞けるのがとても嬉しい。
この春から外出自粛が解除されるまでの数か月は、ラジオは趣味や余暇の域を超えて、「社会人」として日付・曜日・時間を認識する為の必需品になった。

いつも聞いているステーションは決まっている。DJさんもリスナーさんも、皆さん一様にユーモアたっぷりで心優しい。その日嫌なことがあっても、このお気に入りのステーションをタップするだけで、推しの曲がかからなくても、リスナーさんの非常に個人的な話題でも(例:我が家で子犬が3匹生まれました!)、楽しい、面白い。

なんだか先天的に性格の良い人と気分よく雑談をしているような気分になるのが、心地良いのだ。
これが「生身」の友人や知り合いだと、「話」に余計な判断材料が嫌でも入り込んでくる。「聞いてあげなきゃ」という変な義務感が起こることもあるし、相手に意見したくもなるしで、純粋に「話」を聞けないことも多い(私だけですか、苦笑)
この、判断はヒトをヒトたらしめている大切な知性・知識等がもたらすものかとは思うが、コミュニケーションにおいて、時々、無粋な枷になることがある。

以前は、トークの少ない、ほぼノンストップで洋楽がかかるような番組が好みだったが、今はDJの方やトークの作り出す世界から番組を選んでいる。
実際、トークの話題は多岐にわたるし、間にかかる曲も、知らないものがあっても、ハズレがない(百万が一ハズレた場合には一時的に音量を下げるだけ)。

ラジオの向こう、またその向こうの人々の声と音に感情を委ねられる安心感…
感情表現が不得手な私には、本当に大切な友である。
いつもありがとうございます!

...と言いつつこんな曲を選んでしまいスミマセン...

Video Killed The Radio Star



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