死にたいわけじゃないけど

トイレに行くことってなんで用を足すって言うんだろうな?排出するのに。

休憩中ぼんやりしてたらこういうしょうもない疑問が浮かんでくることがある。今日はこれだった。

ちょっと調べてみたら足す=満足する的な意味があり、「トイレに行きたい」という状態は満足していない状況で、それが解消されるので用を足す、ということらしい。ほほう。

時々こうして急になんでこんな言い回しになるんだろう?ということが気になることがある。スマホ持ってるとこういうときささっと調べられて良い。こういうのは楽しい。


昨日は暇な時間帯にずーっと「死にたい」と思っていた。でも別に本当に死にたいわけじゃなくて、もっと適切な表現があるに違いないのに、語彙力が足りなくて「死にたい」と出力されてくるのだと思った。

頑張ってより正確な表現を模索すると、「今の職場の人間関係を一旦全部リセットしたい」かもしれない。

しかし退職や転職活動の労力はものすごいし、まだ接点を持っていたい人たちも少数ながら存在して、それで退職には踏み切れずにいる。あとは将来の不安というか、近い将来に来る親の死、父方母方ともに私が末代なので身内の死にまつわる後始末は順当にいけば私がいずれ担うこと、その不安と今の鬱屈した気持ちがミックスされて出力されてくる言葉が「死にたい」なんだよなぁ、と思う。

昔は死ぬのが怖かった。今も怖い。でも長生きしたいかと言われれば疑問に思うようになった。長生きをしてやりたいことが特にないのだ。行きたい場所も、経験してみたいことも特にないかもしれない。死ぬまでにやってみたいこと、特に浮かばないかも。

まぁポケモンレジェンズZ-Aとかファンタジーライフの新作発売されてプレイするの楽しみだなぁとかは思う。これ読んでみたいなって本も出てくるだろう。今ちょっと浮かばないけど。そういう少し先の楽しみまで生きよう、というのを積み重ねて生きていくしかないかな。ゲームばっかりだな。そういう楽しみも持てなくなったらいよいよかも。

別に人生楽しくないとは思ってないんだけど、じゃあ何が楽しくて生きてるんだろうと言われると、他人を納得させるだけの説明ができない状態。暮らしのためには働いて稼がねばならず、しかし何のために生き長らえているのかわからない。でも人間以外の生物は、別に理由なく生きようとするわけで、何のためにとか考えること自体止めたほうがいいのかな。楽しくなくても、理由なく生きていてもいいはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?