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慰霊の日

 沖縄から出て、県外に進学したときに「異郷に来たんだ」と実感したのが、6月23日が慰霊の日であるということがほとんど知られていなかったことに気づいた時だった。8月6日、8月9日のように全国民が知って当然の日付だと思っていただけに、戸惑った。ローカルな認識に留まっていたのだ。

 地上戦となった沖縄戦では、20万人以上の人が死んだ。そのうち、県出身者は12万を超える。県民の4人に1人が死に、その数は軍人よりも多かった。沖縄戦を「ありったけの地獄を集めた」と形容したのは米軍だった。2016年に公開された映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった浦添市(当時・浦添村)の住民は約45%が死に、一家全滅率なるものは23%に及んだ

 日本軍による組織的戦闘が終わった6月23日(公式な終戦は9月7日)を、県は条例で休日と定めた。県内の学校ではその日を前に、平和教育として沖縄戦について学ぶ。地元テレビ局や地元紙では、慰霊の日に向けて連日のように、沖縄戦の実相を伝える報道、特集が組まれる。そして、二度と繰り返してはいけないことだと何度も再確認する。

 僕が沖縄出身であることを知った大学のサークルの先輩が話しかける。

 - 沖縄に修学旅行で行ったよ。暑苦しいところで、変なババアの話を聞かされた。

 嫌味や悪意はなく、修学旅行で行った場所から入学してきた後輩に、親しみを持って話かけているようだった。その「変なババアの話」が沖縄戦の体験談であることは容易に想像できた。

 なんと返していいかわからず、答えに窮したのは覚えている。でも、表情には出さないように「まあ、沖縄暑いですからね」なんて返事をしたような。

 大学を卒業して沖縄に戻った後、沖縄戦体験者の話を聞く機会があった。その人は沖縄戦で我が子を目の前で失い、多くの親族が戦争に奪われた。高齢になり、戦争体験を若い人たちに向けて話すときに我が子を失った当時の様子をはしょるようになったという。以前までは話せていた箇所だ。「記憶が曖昧になっている」ということだったが、単にそのことを思い出し、耐えうる体力を失ったからのように見えた。辛い経験だけが、体験談から削ぎ落とされてしまった。その記憶から逃れるように。付添人が相槌を打つようにその部分の説明を加えた。

 この体験者は、付添人からも家族からも「もう体力的に厳しいんじゃないの」と言われ、語り継ぐ活動はやめるよう促されていた。しかし、首を縦に振らなかった。

 その姿に圧倒され、たじろいだ。自らの古傷に顔をしかめながら毎度、毎度に開け広げ「この傷が見えるか」と血を流しながら訴えているようだった。傷の痛みに耐えられなくなっても、戦争を知らない若者の前に立ち続けようとした。「どうしてそこまでして」と思い、尋ねた。「二度と繰り返してはならない」と伝えることが使命だと話していた。その人の語り継ぐ活動は少し前に終わってしまった。

 ユダヤ人の”絶滅”を企図した強制収容所や日本軍によって慰安婦とされた朝鮮人の体験者を哲学者の高橋哲哉氏は「満身創痍の証人」と位置づけ、苦しみから逃れるために「忘却の穴」へと向かう人たちをひきずり出すことについて「衆人注視のもとで証言を迫ることほど暴力的なことはない」と指摘し、次のように付け加える。

「開かれた傷口が巨大であればあるほど、犯された破壊が徹底的であればあるほど、つまりある意味で証言の必要性が高まれば高まるほど、それが逆説的にも不可能になってしまう」(『記憶のエチカ 戦争・哲学・アウシュビッツ』2012年、岩波書店)

 戦争体験を聞くことができるのは、こういった暴力に打ちのめされてもなお、語らなければならないという個人の使命感に依っている。「話さない」という判断をした体験者も無数にいたし、現にいる。沖縄を代表するオリオンビールの会長が戦争体験をメディアに話したのも今年、沖縄戦が終わって75年が経過してからだった。23日付の地元紙でも凄惨な新証言が掲載された。

 この75年、少なくとも戦死者は出していない。傷を負いながらも体験談を話してくれた人たちがいたからだと思う。ずっと守られてきた。そして、守ってくれる人はずいぶん減った。

 体験者がいなくなっても、戦争の傷は沖縄に残り続ける。今なお1920トンの不発弾がこの地で横臥する。米軍基地も簡単には退いてくれない。この傷を「痛い」と思う感覚も薄れてきている。

 哲学者の鷲田清一氏がこんなことを言っている。「《注意》を持って聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。(…)ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである」(『「聴く」ことの力』、1999年、阪急コミュニケーションズ)

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今年の慰霊祭が縮小されて開かれる。各家庭が祈りの場となる。まだ遅くはない。体験者が紡ぐ言葉を漏らさぬ耳を持って、じっと傾けたい。

 P.S. 戦争で亡くなった人を「犠牲者」と呼ぶことは、加害と被害の関係性を隠蔽するのでは、という疑問を抱いている。戦争は自然災害ではなく、人災なのだから。

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