8千円の意味

なんで8千円なんだろう。
帰宅してエコバッグの中に無造作に転がっている千円札8枚を見ながらふと考えた。婿のタケルが帰り際に私のエコバッグに放りこんだのだった。

「明日、何してる?」
娘からLINEが入ったのはおとといの夜だった。
「レンタカー借りてタケルが運転の練習がしたいって。ついでに買い物も行けたらいいかなって思って」
用事がないわけでもなかったが、娘たちにもれなくくっついてくる、4歳の七桜と5ヶ月の万葉には会いたい。婆は孫には弱いのだ。
とりあえずニコニコレンタカーのアプリで在庫車をチェックして送った。
タケルは父親の転勤に伴い、ニューヨークで学生時代を過ごして、向こうで運転免許を取っていた。だから運転はできるが、日本の道路は運転できない。先日の実地試験で「その先右に曲がって」と言われて、右折レーンからUターンして反対車線を走ってしまい、教官を慌てさせた男である。たまに「へっ?」ってことをやらかすのが私にはご愛嬌で憎めない。
仮免許の運転の練習をしたいわけなので、隣りに乗るのはもれなくワタシということになる。
いいですとも、いいですとも。
12時間借りて、午前中は個人的な用事を済ませ、お昼ちょっと前に着くよ〜と娘にLINE。既読にならない。娘のマンション下に到着して電話すれども出ない。あれれ、こりゃ着替えにメイクに子供たちの準備にとてんやわんやに違いない。マンションのインターフォンを鳴らした。すると婿殿「ちょっと5分くらい待っててもらえますか?」はい、もちろん。
ほどなくしてタケルだけが下りてきた。
「すみません、実はリリコとちょっと大喧嘩しまして。僕と七桜だけ支度して行きますのでもうちょっと待っててもらえますか」

はす向かいのセブンイレブンに車を停めていたので、買ってきたヨーグルトジュースとサンドイッチを頬張っていると、そこへ娘からLINEが入った。
「万葉ちゃんの離乳食、七桜の遊び相手、洗濯物、自分と子供達の準備が残ってる中、タケルは朝からジムに行っちゃって、そしてみんなのお昼ご飯の支度をしてた。私は自分の準備がもう間に合わないと思って、これじゃ行かれないって言ったら、あっそうって。今まで私はダンスに行ったりして好き勝手してきたんだから、ワンオペでわぁわぁ言うのはおかしいし、なぜそれで文句を言うのかと。俺は音をあげないのにって。温かいご飯を作って出しても、さっきまで子どもと遊んでいたのに、今はいらないって言われるし、帰ってきてもネトフリ観たり、部屋にこもったりしててコミュニケーション全然取れないし。なんでそんな態度なのって言ったら、むしろ母親ならやって当たり前なのに文句言うなら、2人目なんて産まなれけば良かったんじゃないだって。それでも欲しいって言ったの私だって。俺は仕事してる、遊んでるわけじゃない、しかも子供が増えてより稼がないといけなくて、そういう中でワンオペが大変ってなるのは自業自得だって言われた。子供が欲しかったのは私のエゴだったのかもしれないね。そんな喧嘩だったからもう今は顔も見たくないし、今日は家にいるから。迷惑かけてごめんなさい」

あらら、これは大変だ。誰よりも2人目を人一倍可愛がっているタケルが、言ってしまったか、その台詞。

そこへタケルと七桜がやってきた。七桜は
「おーばーっ」
と満面の笑みで走ってくる。そう、私は人呼んで、おばあちゃんのおーばなのである。タケルが仮免許運転中の紙のコピーを取りに行ったので、七桜を後部座席に乗せて
「マミィは?」
と聞いたら、
「マミィはまよちゃんのごはんだからこれないって。あのね、ダディがいけないんだよ、マミィがエンエンないちゃったの。ダディがいじめちゃったんだよ」
「まぁ、そうなの?でもだいじょうぶよ、だってマミィもダディもいつもやさしいもんね。すぐに仲直りするよ」

タケルの運転で私たちは出発した。路上に出る時にウインカーを出すつもりでいきなりワイパーが左右に元気よく動いたから、ニヤケてしまった。アメリカとは左右が逆なので私もニューヨークから帰国した直後はよくやったものだ。
目的地は東京女子体育大学の体育館。ここで七桜の新体操教室のオープンクラスがあるらしい。行ってはみたものの、案の定というか、人見知りをしてお友達の輪の中には入れずに最後まで私にしがみついていた。朝から親の喧嘩なんて見てしまって、その直後に新しい環境にすんなり馴染めるワケはない。

気を取り直し、七桜の通園用のヘルメットと、来週ある二女の結婚式で履く靴を買いにららぽーとへと向かった。

タケルは大手メディアに勤め、年収もそれなりにあり、堅実に投資や貯蓄もしている。一方娘は2人の子供の保育時間などの関係もあり、今はパート勤務。収入格差があり、家計はタケルが引き受けている。娘はファッションなど好奇心も旺盛で、今時の若者らしく古着屋をフル活用しているが、タケルは本当にいいものにだけお金を出すタイプで、古着に興味はない。そしてどちらかというと、無駄にお金は使わないし、なくていいものは買わない派。鍋でご飯が炊けるなら炊飯器はいらない。
そういえば、先日も2人目が生まれて10万円分のこども商品券で夫婦の意見が割れたらしい。娘は家事を少しでも減らせる食洗機が欲しいといい、タケルは温風と冷風が出てくる空気清浄機がいいという。娘は温風と冷風は出ないけど空気清浄機ならあると主張し、タケルは洗い物くらいできるという。
温風冷風機はないよりはあった方がいいレベル、食洗機は仕事をしてくれるということで、どうやら軍配は食洗機に挙がったようだ。タケルは素直でまっすぐなところと、こだわりが強く、頑固な面も持ち合わせている。買うまでには徹底的に調べるので、買うとなればいいものを買うが、そこに漕ぎつけるまでのハードルが高い。でもこのくらい締めないとお金は貯まらないものでもある。それをケチというのか、堅実というのかの判断はまぁひとそれぞれ。

ららぽーとでの帰り道、なんで娘は怒っているの?と聞いてみた。

「ちょっとしたことなんです。家事の負担とかそんなことで」
「よくある話ね。夫婦のトラブルなんて大体最初は大したことじゃない」
「そうですね、僕がわかってやってなかったと思います」
あら、こう綺麗に返されると、ん〜大丈夫かなと逆に心配になるのは長年の勘か。
「その都度解決しないで溜めてきちゃうと、ちょっとしたキッカケで口が滑る。なにそれ?じゃあ言うけどって、今までは堪えてきたのに、堰を切って言っちゃあまずいことまで勢いで言ってしまったりね」
「そうですね」

ここで実際にあったある夫婦の話をした。
旦那さんはもの静かで真面目。奥さんはパートで働いて、高校生と中学生の娘が二人、普段はみんなで出かけるような仲良し家族。ところがこの旦那さんはお酒が入ると別人に変身してしまうのだ。つい先日、とうとう大変なことが起きてしまった。旦那さんが酔った勢いで奥さんと長女に当たるので、奥さんは娘たちの部屋に逃げていると、帰宅した二女が捕まってしまった。放っておけない奥さんが助け舟を出したところ、「うるさい、口を挟むな、出てけーっ」とやってしまった。売り言葉に買い言葉、本当に出ていってしまった奥さんを追いかけて掴み合いになり、勢いで突き飛ばしてしまった。それが当たりどころが悪く、奥さんはコンクリに頭を打ちつけて大怪我を負ってしまったのだ。我に返った旦那さんは娘に「救急車を呼んで、早く」
なぜあの場所で怪我をしたのか救急隊員に聞かれ、夫婦喧嘩とわかると警察が呼ばれた。一歩間違えていたら、死亡していたほどの怪我で、DVの疑いがかけられてしまったのだ。日頃から頭を悩ませていた奥さんも自分が死んでいたかも知れないことに怖くなり、ついにそこで被害届が出されてしまった。その日、母娘はシェルターに泊まり、旦那さんは警察に連れて行かれて酔いも覚め、しでかしてしまった事の大きさにショックを受けてしまうのでした。事の発端は食べた食器を片付けないとかそんなこと。でも積もり積もると些細なことも些細ではなくなるし、怒りも初めは忘れる程度が、この間もその前もそうだったでしょと怒りの足し算が始まってしまうのはある話だ。

タケルは右に行けば立川駅と理解していたのになぜか左に曲がった。
「今日はお義母さんの話が聞けて良かったです。仰る通り、彼女へのストレスを溜めてました。その時言えば良かったのに、言わないからどこかで機嫌悪くなってる自分がいました。子供のことは関係ないのに、傷つけたと思います。今日は帰ったら二人でよく話をします」

その後娘から連絡が来た。
「うちの都合で車を借りたのに、お金を払わなかったんだって?レンタカー代とガソリン代払うからね」
そのくらい大丈夫よと言ったが、そうはいかないからと言う。いつも現金を持たない人だから、今度下ろしておくように言ったから。そして
「今朝ちょっと話して、続きは今夜また話し合うことになったよ。七桜がね、誰も来ないから今日もおーばに会いたいんだって。どこか連れて行って欲しいみたい」
おーばはいそいそと迎えに行った。
タケルは今将来に備えて絶賛貯蓄中。休日も予定が入らなければ出かけない。ここで免許は取っても車を買うつもりはないという。4歳と5ヶ月の子供がいたら、急病の時も、雨の日の保育園も、どこかに出かけるにも車はあった方が便利と思うが、必要な時だけレンタカーを借りるという。一番車が必要な時、あったら助かる時っていつ?
「いまでしょ」
周りの声に耳を傾けられるといいなぁと老婆心ながら。

暇を持て余した七桜の希望で、今日はちょっと遠いけど川崎の水族館まで足を延ばした。抱っこをせがまれ、動く甘えん坊の15キロの重いこと。おーばはクタクタ。
「もう無理。おーば限界デス」
「だいじょうぶ、おーばはちからもちだから」
「お願い、降りて」
「いや〜、だめ〜、なおちゃんつかれたんだもん」
そりゃ私の台詞よ。筋トレのつもりでもしんどかった。
そんな濃い1日を過ごし、やっとこさ帰宅。玄関先で別れ際にタケルが私のエコバッグに放りこんだのがさっきのお金である。
「なに?」
「これは取っておいてください」
千円札が数枚、たくさんあるように見えて
「やだ、いっぱいない?」
「いいんです、いつもいろいろありがとうございます」
子供の前ですったもんだしたくなかったので、
「お気遣いをありがとうね」
とだけ言った。

そして帰宅してバッグの中のゴミやハンカチを取り出したら
あ、お金・・
数えてみたら8千円?
ふむ、これは
レンタカー代+ガソリン代+水族館+ご飯代?
違うなぁ。
レンタカー代+ガソリン代+私の電車代?
違うなぁ。
「いつもありがとうございます。いいんです、取っておいてください」か。
余分に渡したつもりなんだろうなぁ。

孫とのお出かけはこっちも楽しいから、ついちょっとした出費は厭わないけれど、孫も賢くなってきて、甘え上手になってきた。大した金額ではなくても毎週積もり積もればおーば世代には負担がないワケではない。なので子守りを頼まれた時には、遠慮なくいただくことにした。娘と私の暗黙の了解である。でなければこれも変な話、積もる原因になりかねない。もっともお金持ちのジジババには全く関係ない話だけど。

なんだか可笑しい。たかが8千円。されど8千円。
この中途半端な金額にタケルの気持ちが透けて見えてしまった気がした。




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