操法大会と全体主義

最近消防団を退団した。人数が少なくなって来ているので申し訳ないなと思いながらも。 
これは操法大会に出場した時の話。 
知らない人もいるかと思うので説明しておくと、操法大会というのは、火事が起きたのを想定して、防火水槽から給水しホースを繋げて伸ばして消火するまでのタイムと所作の正確さを競うというもので、最終的には全国大会まである。 立っている時の足の幅や角度、走る時の姿勢や拳の位置、腕の振り方など、かなり細かく練習して体に覚え込ませる。 とにかく減点されないように完璧な動作を目指しつつタイムを競う。
 入団した頃の最初の数年は「そういう事はとにかく苦手なので、操法の選手だけは勘弁してください。」と言って免れていたのだが、人数が少ない為、断りきれず選手として出場することになった。 初めに出場した時は、嫌々ながらなんとか最後までやり遂げた。 2度目に選手になった時、どうせやるなら試しに完璧を目指してみようと思い、面倒臭さや、恥ずかしさを封印し、練習に集中した。 繰り返し練習しているうちに分かったのは、こうあれば100点満点という決まった型がある場合、当然、独自の発想とか、自分がどうしたいのかという思いや感情などは必要無くて、むしろ、それが無くなれば無くなるほどスムーズに動けるようになると言う事だった。
自分の抵抗する気持ちが消えていって、ただひたすら型にはまっていくと、ゾーンに入ったような状態になっていき、そこはとても気持ちが良かった。
抵抗する事をやめて、ただひたすら型にはまっていくのは、とにかく楽だった。 そして僕は全体主義というものを理解した。 なるほど、これをうまく利用していたのか。 型を重んじる日本の文化とも相性が良いのだろう。
 日本の芸事や武道には守破離(しゅはり)という言葉がある。 修行における発展の段階で、まずは基本の教えである型を“守る”。 型が身に付いたら、そこから自分のアレンジを加えていって型を“破る”。 そして最後には型を“離れる”創造の段階に入る。 基本の型の大切さはキックボクシングをやっていた時によく分かった。 体に型を覚え込ませて、考えなくても体が反応するようになると疲れないし、動きもスムーズになる。 だから型に長い時間を費やすのはよく分かる。

 でも、生きる事において、型は上手に扱わないといけない。 型の教育が長過ぎるせいで、そこから抜け出すのが難しくなるどころか、はまっている事にも気付かなくなっていたりする。 今、この国に蔓延している閉塞感に風穴を開ける為には守破離が必要なのかもしれない。

そして、どこへいても、何をしてても、向かうべき道を示してくれるのは、自分の中から湧き上がって来る感情や思い。 それを大切に守っていかなきゃいけない。 そうしないと知らないうちに変な方向へ持っていかれてしまう。

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