千羽鶴

このnoteでは個人の考えを主張しているに過ぎず、根拠となる文献に不足している可能性があります。

最近、千羽鶴という単語をよく見かけますね。
整理してみると、「いくつかの団体や施設が、ウクライナ大使館に千羽鶴を寄贈しようとしている」ってことのようですが、個人的に思うことが多々あったので書きたいと思います。

1.千羽鶴を送る行為は迷惑か?

一番の論点になっているのはここですね。
送られても処分に困る、支援物資かと思ったら千羽鶴だった……など、実際の体験談と見られるものもあります。

正直、私も送られるのは迷惑だと思います。

戦時下の大使館はどれほどに忙しいかは私も知りませんが、たとえ善意であっても、はっきり言ってそんなものに対応する余裕はないでしょう。

“ウクライナにおいて鶴は死を意味する”という説は、デマの可能性もあるそうなのでここでは用いません。

2.千羽鶴を折る行為は無意味か?

そして、もう一つの論点はここ。個人的にはここが気になりました。

結論から言うと、私は無駄ではないと思っています。しかし、やり方は変えたほうがいいとも思っています。

千羽鶴は、折られた鶴そのものではなく、折るときに込められた祈りにその価値があるのではないでしょうか。すなわち“願掛け”の一種であり、神社やお寺にお参りしたり、占いをしたりするのと同じ行為です。

当然ながら、募金や物資支援など、実益を伴う支援に勝るものはありません。どこかの人も「誠意は言葉ではなく金額」と言いましたが、全くその通りだと思います。

しかし、中には学生さんや年配の方など、収入が心許なく、金銭的支援が難しい人もいるでしょう。それでも、なにかしないと気がすまない人がたどり着くのが、祈りなのでしょう。故に、その意志を否定するのはあまり良いことだとは思えません。

では、どうすればいいのか。

簡単なこと。

寄贈せずに自分の家や施設に飾ることです。

贈らなくても祈りはきっと届く。
厄介なものとして扱われるより、遥かにマシでしょう。

もしくは、途中で言いましたが、神社やお寺へのお参りをするなど、やり方を変えてみるのもいいかもしれません。

平和を祈る気持ちそのものを否定するのは間違いだと思います。しかし、自分たちの習慣を文化の違う相手に押し付けるのは、偽善を通り越して迷惑行為でしかありません。

そして、「そんなことを言うならもういい!やらない!」と思った方は、残念ながら向いてないので、やらないほうがいいかもしれません。

まあ、なにはともあれ、ウクライナに一日も早い平和が訪れることを祈ります。

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