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僕の神様

神様はいる。
マニラのカトリック大聖堂に行ったとき、僕は神様と会話した。
そんな錯覚に落としいれるほど聖堂の空間が
マニラの外気の痛いほどの熱を遮断して
暑くもなく涼くもない温度で
僕を神秘的な空気に包まれた。

神様はいつも僕の願いを叶えてくれる。

「僕のいつか・・・」をいつも叶えてくれる。
結局、僕は変わらない。

僕のいつかは、また、5年後も「いつか・・・」なのだ。

今の結果が今の僕。

その僕が「どうしたら変われるのか?」を考えてみても
答えは出るはずがない。

結局、また「いつか・・・」になるからだ。
今、変われなかった自分の視点でどう変わろうとしても

結果は同じだ。

見方を変えれば考えは変わる。
でも、どう見方を変えるのか?

それは「終わりを思い描く」ことから始まるのか?

7つの習慣の第2にの習慣を脳から引っ張り出す。

僕が死ぬとき、僕は何を残せるのか?
誰が真剣に泣いてくれるのか?
そんなことより、残した家族や恋人、社員、友人などなど
どう生きていくのか?

自分は死んでいくから関係?
そうは思えない。

やっぱり、「この人たちに何かの思い出や生きる勇気を与えたい」
自分がこの世に存在した証拠を残したい。

思いは、そこに行き着く。

祖父の顔を僕は知らない。
祖母の兄弟は作家や画家だった。
変わり者の人生を送ったのだろう。

小学校高学年のとき、渋谷東急で個展が開かれたので
初めて一人でバスに乗って行ったことがあるけど、
どんな絵だったか記憶にない。

僕のストーリーのルーツは
祖父が祖母と知り合い、父が生まれ、父が母と知り合った。
父が酔った勢いで僕が誕生したのかは定かではないが、それは奇跡だと思う。

もし、1日ずれても同じ僕が生まれたのか?

そして、その奇跡が奇跡を起こし、誰かと出会う。
僕のストーリーはその奇跡で完成する。

なのに「誰かと自分を比べる」
「僕は僕だ!」と思っていてもどこかで比べる。

そして、僕は気づく。

見える景色を変えないと「終わりを思い描いても」
また元のいつもの僕。

結局、見方は景色を変えないと変わらない。


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