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6 新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展トークショー 有楽町編

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司会:『宮本から君へ』のコンビニ版を出す時に、表紙の絵を欲しいってもらいに行く時とかスゲー怖かったんですけど。やっと一枚出てきてヤッターと思ったら、写真…当時で言うとまだ資料写真を撮ってプリントして保管してた時だったんで、それを探すのが非常に嫌でしたね。


新井:もう、地獄でしたね。『ザ・ワールド・イズ・マイン』が終わった時に写真がすごい枚数あって。一番地獄だったのが3.11の地震があった時に、もう、アホみたいに揺れて家の中。家の中食器から電子レンジから何から吹っ飛ぶぐらい。(被災地の)仙台の家の中の映像を見た時に「ああ、うちコレと一緒だった」ていうぐらい揺れて。その時に作業部屋で原稿用紙から資料から全部高さ50cmぐらい埋まっていくから。その時に皆飲んでた飲み物、落ちた写真にその飲み物がかかって。それの整理がもう、気が狂って…一週間ぐらいそれにかかって乾かしながらやってた。


司会:あれは3.11の時に地震があって俺が二駅離れてたんで新井さん所に歩いてったんですよね。で、部屋に入ったら誰も居なくて。スタッフさんも新井さんも入江さんとかも居なくて。で、床にこれくらい紙の束が落ちてて、その中に原稿が有りましたからね。


新井:大変でしたね…その状況で当時スペリオール でやってた時に担当編集から電話かかってきた時に「すいません、もう、作業どころか原稿がどこにあるか分からないんですけど」って言ったら、担当の人に…凄いなって思ったのが、それ金曜日か。「新井さんすいません、週明けまでに上げてください」って言われて「恐るべしだな締め切り!」って思って。

アシスタントの家族持ち皆帰らせて、独身の子だけ残ってもらって。もう、寝る場所も無いし。日曜日には娘が「パパが逃げないんだったっら、私はここから動かない」て言われて。横浜の方に実家があったんだけど、俺が帰らないと娘はそっちに行かないって言って。じゃあ、しょうがないって思って原稿持って俺一人で月曜まで最後まで仕上げて娘と一緒に帰ったおかげで、それから一週間、毎日都内まで通ってました。

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司会:3.11の時は小学館のビルはまったく影響無かったんですよね。で、新井さんのマンションが何階でしたっけ?


新井:9、10階くらいに住んでて、すごい細いマンションなんで揺れがすご過ぎて近所に住んでる表側と裏側から見た人から言われたのが、漫画みたいに揺れてたって。本当にアホみたいな揺れだったんで。


司会:あの時はマンションの3階ぐらいは大して揺れてなくってね…
だいたい、30年漫画をやり続けてきたんですけど、最後に感想と言うか抱負。これからの事も含めてで良いんで。


入江:これからのことと言ったら簡単な絵で続けられればと思って…フフフ。そうですね。


司会:(入江さんは)新井さんとは違う職業だと思ってるんで、あんまり原画を並べて欲しくないと。


入江:並べてほしくない。正直並べてほしくないし、(新井さんが)色紙とかも絵画かよっていうぐらい描いちゃうんで結局値段を釣り上げなくちゃなんなくなって私のだけが売れ残る。そのことに関しては凄く恨んでるんですけど、まあ、言ってもしょうがないんで。このような状況でこの先何年続けられるか分かりませんけど、続く限りはボチボチ騙し騙しやってくしかないかなっていう感じですかね。

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