2020-2021

長いな。ぱぱぱっと2021を振り返った時にそう感じた。年々短くなってくはずの時間経過を鈍らせているのは昨年から続くアイツのせいだろう。相変わらず抗うための確かな術を見つけられないままの生活が続く。飽きと慣れは来るのに終わりは未だ来てくれない。無神経にシカトを決め込むわけにもいかず、果てのないマラソンをだらだらと続けている。

遷り変るのを指をくわえて見ていただけの2020より、2021は久しぶりにしっかりと「生きた心地」があった。昨年よりは行動が赦されたからできるだけ人と会おうとした。久しく会っていない人や、あまり深く関わってこれなかった人とも交わろうとした。再会と遭遇に満ちていた。別離もそれなりにあった。仲良くなるとはいかずとも、厚かましくならない程度にその人を理解しようとした。(時に踏み込みすぎてしまうが)隠せているかは分からないが、厚かましくならない程度に自分のことを理解してもらおうとした。(時に見せつけすぎてしまうのだが)これまで知らなかった世界に触れてみたりもした。(残念なことにこれは依然として目覚ましい感動や気付きは生まれていないが) そして風邪をひいていることが分かってしまって、気を取られることもあった。良し悪し問わず、出会ってしまったモノとは自分なりに向き合ってきた所存。

2020年の2月までに得たもの、それ以降に得たもの、それらを照らし合わせて確かめながら歩むような2021だった。故にこの2年間はセットで続いているような感覚もある。冒頭に書いた「長いな」はそういうことなんだろう。

自論が通用せず強大に見えた相手、一方では分かり合えたのに一方では相容れない相手。立ち向かうのではなく分かり合うために言葉を尽くすという、途方もないが飽く無き作業を繰り返すことで確かめてきた。それによって理解した感情もある。案外うまくいったこと、どうにもならんかったこと、両方ある。人に言葉を差し出すと、自分にも差し向けられた気になっていた。

時たま欠いてしまった誠実さへの反省はある、後悔はない。口や文ではそう言ってみる。次に活かそうと藻掻くのに必死だから、あんま悔やんでる暇ねえんだわ。

先日、友人と文章でやり取りをしている中で「あなたの存在に救われていた」といった内容の返信があった。救おうとした覚えも救った実感も無かったが、なんとなく「彼女と友人になれてよかった」と思わされた。その言葉に何処か救われた感覚もあり、結局はそれの繰り返しなのかもしれん。前述の放った言葉が自分に差し向けられている瞬間がまさにこれ。仰々しく感動的に飾ったり、誰かへ言い伝えるのではなく、ただその言葉の感触が適当な温度を保ちながらあったかく残っている。決して華々しくはなくとも、微力でも何かを添えられたならそれでいい。というよりそうしていたい。そうされたいし。

人に心動かされて生きている、今年は特にそうだ。風邪はまだ治らない。

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