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歴史”にわか”ですが、あっさりと邪馬台国の場所を特定しました(超大作だよ!)

西暦100年頃から300年頃にかけて日本列島に存在した『邪馬台国やまたいこく』という国は、日本の誕生に深くかかわった可能性がある。また、日本人のルーツを紐解く鍵である可能性も高いというのに、今なお分からないことだらけだ。

忽然と消えてしまったのか、はたまたヤマト王権へとつながる国だったのか。

「邪馬台国」と「ヤマト」の発音が似ていたり、天照大神あまてらすおおみかみと卑弥呼(日巫女)はどちらも太陽に関連するのではないかと、その類似性もあり想像力が掻き立てられる。
もはやロマンしかないのだ。

それほどロマンがあるのなら解明するしかない。

ということで、まずは邪馬台国(女王国)の場所を突き止めようと考えた。
(日本史”にわか”の私の浅はかな暇つぶしにお付き合いください('ω')ノ )


この記事は長い!読むのもメンドクサイ程に長い。
だ・か・ら、結論だけ知りたい人のためにリンクを設置(親切設計)


話を元に戻そう


邪馬台国の場所を突き止めるにあたっては、中国の歴史書『三国志』が役に立つ。
というか、ほぼそれしか情報が無いと言っていい。
280年~297年頃に書かれており、西暦100年代、200年代頃の日本を知ることができる。

ちなみに日本で最初の歴史書である『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』のいずれにも「ヤマタイコク」や「ヒミコ」のことが一切出てこない。
長らく文字を持たなかった日本では、口伝えで歴史を語り継いできており、記紀きき(古事記と日本書紀の総称)は日本各地の伝承をかき集めてできている。

そうであるならば、邪馬台国の伝承も書き記されていてしかるべきだ。30国が集合した連合国であり、長きにわたり大きな内乱を起こしたことが分かっているものの、日本が作った歴史書(記紀)に一切の記録がないのは不自然すぎるのである。

ということで、『三国志』内で倭国について記されている「魏志倭人伝ぎしわじんでん」の現代語訳を見て考察してみよう。(wikipediaより抜粋)
※ちょっと読みにくくて長い文章だけど頑張って( ^^) _旦~~

なお以下の抜粋文中の太字は邪馬台国の場所を特定するために有用だと思う部分だ。また、現代語訳とはいえ意味が想像しにくい単語もあった。該当する単語に <   > を付けて私調べの補足説明を記しておく。

倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑<国や村>をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。

郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。その大官を卑狗(ひこ。彦か)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり。夷守・火守か)と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。

また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に着く。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。

また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。

東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。

東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。

南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。

南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。

女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。これが女王国の境界の尽きるところである。

その南に狗奴国があり、男を王とする。その狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。

帯方郡から女王国までは一万二千里。

男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする。

古代からこのかた、その使者が中国に訪問すると、みな自ら大夫(卿の下、士の上の位)と称する。

夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。

諸国の入墨は各々異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある。

その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。

その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。

稲・いちび・紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。

その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。

兵器には、矛・盾・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である。風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある。

倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である。

家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。飲食では高坏(たかつき)を用い、手で食べる。

人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて水中に入り、体を清める。これは練沐のようである。

倭の者が中国に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が𠮷善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。

真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には柟(だん(クス)、杼(ちょ。トチ)、櫲樟(よしょう。クスノキ)・楺(ぼう。ボケ)・櫪(れき。クヌギ)・投橿(とうきょう。カシ)・烏号(うごう。ヤマグワ)・楓香(ふうこう。オカツラ)がある。竹には篠(じょう)・簳(かん。ヤタケ)・桃支(とうし。カヅラダケ)がある。薑(きょう。ショウガ)・橘(きつ。タチバナ)・椒(しょう。サンショウ)・蘘荷(じょうか。ミョウガ)があるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない。猿、黒雉がいる。

その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。

その会同・起坐には、父子男女の別は無い。人は酒好きである。大人の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(膝まづき拝する)の代わりにする。人は長生きで、あるいは百歳、あるいは八十、九十歳。

風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。身分の上下によって、各々差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。

租賦(ねんぐ)を収める邸閣が有った。

国々に市があり、貿易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き、諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。国中(中国)の刺史のようなものである。

王が使いを遣わして京都(魏都洛陽)<日本の京都ではないことに注意>・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ。探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(入り乱れ、交わる)することはない。

下戸が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまづき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫(あい)と言い、それは、承知の意味である。

その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。

女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である、又、侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年がかりで着くことができる。 

倭の地についての問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。

wikipedia:「魏志倭人伝」より日本語訳のみ抜粋

まずこの図を見て欲しい。

帯方郡から奴国までの道程

ここまでの経路については、若干の誤差はあれど多くの研究者の意見が一致している。なにせ西暦200年代の地名と、1800年以上も後の現在の地名とで音がほぼ変わっていないことと、経路に特徴的な島があることから一致させやすい。また距離も概ね合う。

『對馬國(つのしまこく)』=「対馬(つしま)」
『一大國(いちたいこく)』=「壱岐(いき)」
『末廬国(まつろこく)』=「松浦(まつうら)」
『伊都国(いとこく)』=「糸島半島」の近辺
「奴国(なこく)」については、現代までに名称が変わっており、奴国(なこく)→儺県(なのあがた)→那珂郡(なかぐん)と変遷し、現在は福岡市・春日市・大野城市・那珂川市の区域に分散。

地名はそうそう変化しないため重要なヒントになるもんだ。(そう考えると、廃藩置県や平成の大合併などは貴重なヒントが消えてしまうイベントなんだな…)

上記の図に示した経路で地名と距離は概ね合っているものの、唯一、方角が微妙にズレているところがある。しかし、当時は方位磁石が発明される800年も前。天体から方角を測っていたため天候が悪ければ正確な判断ができなくなるし、中国と日本とで経度と違うため、北極星以外の天体で観測していれば、見える方角にズレが生じている気がしている。記載の内容がどの程度の精度であったのかはわからないため、方角についてのみ信憑性に疑問が残るのだ。

それでは、これまでの経路について改めて現代語訳を確認しよう。


郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。

スタート地点の帯方郡たいほうぐん(現在のソウルあたり)から狗邪韓国くやかんこく(現在の釜山あたり)までが7,000里。


始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。

次の地点が對馬國つのしまこく(現在の対馬つしま)で、その距離は1,000里。


また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に着く。

その次が一大国いちたいこく(現在の壱岐島いきのしま)でこちらも1,000里。


また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。

その次が末廬国(現在の松浦付近)で1,000里。


東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。

その次が伊都国(現在の糸島付近)で500里。


東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。

その次が奴国(現在の博多付近)で100里。

ここまでで、帯方郡から10,600里だ。

魏志倭人伝では、以下の通り帯方郡から女王国までは12,000里と書かれている。

帯方郡から女王国までは一万二千里。

つまり国(博多付近)から1,400里の距離が一つの目安になるはずだ。
狗邪くや韓国から対馬の1,000里を基準にして、半径1,400里の円を書いてみた。

奴国(博多付近)から1,400里の距離の円

この円はあくまでも奴国からの直線距離を示すものであって、その線上付近に邪馬台国があるというものではない。

西暦200年代ごろには、長距離の道を作って維持する土木技術も人手もなかったであろう。集落内とその近辺以外の道は登山道や獣道けものみちのような細い道で、きつい勾配や障害物を避けながらクネクネとしていたはずだ。

また、点々とする集落と集落をつなぐように道ができていると考えるのが自然で、奴国から女王国まで一直線上に集落が並んでいる可能性は極めて低い。
したがってごく自然に考えれば東西南北へ折れ曲がりながらジグザグに女王国へ進むはずである。

つまり上記の半径1,400里の円はあくまでも最大値であって、実際の女王国への直線距離は半分の700里ぐらいなんじゃないかと推測している。(これは何の根拠もなく、ただの感。)

さて、奴国までの道のりは比較的スムーズに追跡できたし、致命的な疑問点も無い。逆にこれ以上に信頼できる仮説はないはずだ。
しかしこの後の国、不弥国(ふみこく・ふやこく)からはっきりしなくなる。

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。

博多から東へ100里ほど。そこらあたりで似たような音の地名を当て込むとすると福岡県の「宇美町(うみまち)」ではないかと言われている。
ただしこれまでのような確信がもてない。東に100里程度というのは誤差の範囲とも言えるためいったん保留とする。

そしてこの次は『投馬国(とうまこく)』だ。投馬国を経て『邪馬台国』に到着するため、その2国の場所が分かればよいのだが、その『投馬国(とうまこく)』が大問題なのだ。
ここまで積み上げてきた邪馬台国への経路の推測方法が突然通用しなくなってしまうため、現在に至っても論争の火種となっている。

では、現代語訳を見ていこう。

南へ投馬国に至る、水行二十日。

「水行」とは舟の移動だろう。まさか泳ぐわけはない。
魏志倭人伝において、海岸沿いを進むときの記述は、原文で「海岸水行」、海を渡るときは「渡一海」と書くのがこれまでのパターンなので、海ではなく川の移動であると推測するのが自然だ。

川を進むと仮定する場合だが、海用より小型の舟を使うと推測される。
イメージしているのはカヌーやカヤックのような細いタイプだ。
博多方面から南へ進むとなると途中までは流れに逆らって進むことになるわけで、その場合はやはり細い舟が必要だと思う。

細い舟の場合、問題は積載量だ。
中国からの使者の他、道案内人、通訳や役人、あるいは警護用の兵士や、荷物持ち担当などが同行していると推察されるが、小舟に乗せるには少々人数が多い。人数が多ければ、必然的に食料も荷物も多くなるため、それらの荷物と偉い人だけを舟に載せ、使用人が浅瀬を歩いて船を引っ張るというパターンも想定できる。

このあたりのストーリーを数パターン想像してみるものの、やはり推測するのは難しい。

まぁ正直に言うと「水行」であることはそんなに問題じゃない。
論争の火種となっているのは、次の国への距離が書かれなくなったことだ。
代わりに記されたのは到着までの”日数”だ。

距離が同じでも、険しい道を行くのか、大雨の移動なのか、川を下るのか遡上するのか、途中で寄り道するのか、どのぐらい休憩するのかで変わりまくる「変数」なのだ。
日数では仮説も立てづらくなるし、想像できる範囲も広がりすぎる。
お手上げだ\(^o^)/

また、ちょっとしたことだが距離から日数に変更になったのと同時に、戸数(家の件数)の表現も変わっている。
それまでの原文には「有二萬餘戸(二万余戸ある)」と言い切りの形で記載されていたはずが、「可五萬餘戸(五万余戸ばかりか)」と、ちゃんと調べたわけではないようなフワッとした言い方に変わっていまるのだ。

そして以下が投馬国から邪馬台国への経路の現代語訳なのだが、こちらも距離ではなく日数で表記される。

南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。

どういうわけか、邪馬台国の直前になって情報の質に変化が起きているのだ。

これまでの道のりでは、陸路・海路の距離や方位だけでなく、訪れた集落の規模やおさの名、食事から文化風習、政治まで手を抜かずに書き記してきた人が突然めんどくさくなったとは考えにくい。

国の歴史書を作る一大事業を担っているということは、担当者はまじめで優秀だろう。長い距離を何日もかけて苦労して移動して、肝心の記録に関して手を抜くとは到底思えないのだ。

つまり不弥国(ふみこく・ふやこく)から投馬国(とうまこく)の間でそれができない何かがあったのだ。

これについて私はこう推理した。

倭国での取材に制限がかかり、詳細な距離がだせなくなったのではないだろうか。よく北朝鮮なんかが許可された場所以外でのカメラ撮影を禁止しているような制限だ。
例えば、「距離を計測するためのシステムが一時的に没収された」など。

というのも、魏志倭人伝に記された倭国の体制には、セキュリティ意識がとても高いと考えられる記述がとても多いのだ。

例えば以下だ。

女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き、諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。

女王国の北にある伊都国に軍隊を置き、近隣諸国(おそらく邪馬台国の連合国)を監視している。とあり、身内に対してもかなり強硬な政治をしていたことが伺える。

また、その伊都国においては

(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。

とあり、さらに

王が使いを遣わして京都(魏都洛陽)<日本の京都ではないことに注意>・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ。探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(入り乱れ、交わる)することはない。

中国の王や帯方郡の使者が倭に入るときは、伊都国の軍隊が港に出向いて調査・確認し、文章や贈り物は女王に伝送することになっている。
使者が直接女王に渡しに行くことはなく、返事の手紙を受け取るまで伊都国で常駐することになっている。つまり、外国の使者は伊都国より奥に入ることは本来は許されていないわけだ。

さらに以下の記述だ。

王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。

卑弥呼が王となってからは、極力外部の人との接触を避け、内部には多くの召使をはべらせていた。内部にいる男は一人だけで特別な役だった。また居所(大きな邸宅?)の周りには城柵を設け、見張り台を立てている。そして警備兵が取り囲んで警備にあたっていたようだ。

これは、倭国大乱があったがゆえに、連合国内の新たな戦にも警戒していたし、外国からの使者についても、おいそれと女王に近づけさせてはならないという意思が節々に感じられる。危機意識は現代日本よりもずいぶん高そうだ。

倭よりも圧倒的な知識・技術・武力を持つ中国に対しては、怖がって対応するぐらいあたりまえなのだ。その一方で倭を治めるために中国の後ろ盾が欲しかったはずだ。
(おそらく邪馬台国に参加していない南の勢力や東の勢力に戦わずして勝ちたいという思惑があったのではないだろうか)

中国の後ろ盾が欲しい女王は、中国による倭国の取材を受けざるを得なかった。一方で、中国が女王国に攻め入るための助けとなるような情報[例えば卑弥呼の居場所の正確な道順]が記録されないようにしたい。

女王国側はそのように思ったのではないだろうか。

そこで、不弥国以降は、詳細な調査に制限をかけたのではないか。あるいはわざと遠回りするようなコースを進んだ可能性もある。

それでも中国からの使者は優秀で真面目だったので、制限がかかってるなかでもできる記録をした。それが経過日数だった。

このストーリーであれば無理筋ではないと思うがいかがだろう。
証拠不十分で、あくまでも想像に域は出ないのは承知している。

魏志倭人伝に散りばめられたヒントは他にもいくつかある。
それぞれ見ていこう。

まずは、すでに既出だが改めて掲載。

女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き、諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。

「女王国の北に伊都国がある。」逆に言うと女王国があるのは、伊都国の南側と言うことになる。
したがって、糸島から南方向にある久留米・筑紫平野・熊本方面が候補地だ。一方、東側にある大分・宮崎、西側にある長崎については、伊都国の南側とは言えないので無視してもよさそうである。

そして二つ目がこちら。

その南に狗奴国があり、男を王とする。その狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。

女王国の南には、女王に属さない狗奴国がある。

女王からすると南の狗奴国を邪馬台国の連合に組み入れたいはずだ。
その思いがあるとすると、女王国から南側への侵攻の拠点として、狗奴国の北側に女王国を置いた可能性もなくはないか。

女王国の規模が七万戸。
奴国(博多)と女王国の間にあると思われる投馬国が五万戸。

朝鮮半島や中国との貿易で潤っていたであろう奴国(博多近辺)が二万戸であることを考えると、かなり大きな2国が奴国から見て南方面に存在したと思われる。

南に兵力を集中させ、ジリジリと南下していたという仮説もなりたつだろう。

そして三つ目がこちら。

女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である

「女王国から東の海を1,000里ほど渡ると複数の国があって、それは倭種」とある。
まずは九州と四国の間の海(豊後水道ぶんごすいどう)に約1,000里の棒を置いてみた。

本州だと1,000里もなく近すぎるようだ。
九州から四国への距離がおおむね1,000里で一致している。

ちなみに鳥取県のサイトに弥生時代後期の葬儀様式の分布画像が掲載されており、これが実に興味深いのでリンク先の一番上の画像だけでも見て欲しい。
なんと北部九州と西四国は葬儀の様式が共通なのだ。

個人的には、割と説得力がある状況証拠の一つになると思った。
それどころか、この図自体が邪馬台国(30の国の連合国)の範囲を指しているようにも見える。というのも、前出の以下画像とかなり一致してないだろうか?

奴国(博多付近)から1,400里の距離の円

葬儀様式の分布図にある「北部九州」の範囲を参考に以下の図中にラインを引いてみた。

そうすると山を隔てて南側に球磨郡(くまぐん)があるのだ。
そして女王国に対立しているのは、女王国の南にある狗奴国だ。

これ、もしや読みは「くな」国なのでは?
『くな』であれば「くま」はかなり音が似ている。

もしも
『狗奴国(くなこく)』=「球磨国(くまこく)」
の仮説が正しいのならば、魏志倭人伝に書いてあることが一気にすっきりしてくる。

なぜなら球磨郡の北にあって、七万戸もの家が建つのは地図上から確認する限り、現在の熊本市近辺しか考えられない。この平野ならば近海漁業・農業どちらも可能で食料供給も問題なさそうだ。
熊本市近辺が邪馬台国だとしてもおかしくはない。

そうなってくると次は投馬国(とうまこく)だが、邪馬台国に次ぐ規模の世帯数を誇る。その数、五万戸。
そんな大規模な食糧を生み出せるのはやっぱり海に面した平野部の可能性が高く、そんな場所は筑紫平野しかないように見える。

結論

つまり私が導き出した答えはこの図の通りだ。

投馬国を筑紫平野あたり仮定して逆算すると、不弥国(ふみこく・ふやこく)は現在の太宰府ではないだろうか。奴国(博多)からも100里程度の範囲だし、平野部が東西の山に囲まれて狭くなっている場所でもあるし、後の大宰府と同じく関所の役目を担っていたとしてもおかしくはない。

不弥国が関所と仮定するならば、中国の使者に対して不弥国で何らかの制限がかかり、それ以降から距離→日数に情報が変わったことも説明が付きそうである。(ただの妄想でしかないのは承知している)

そして邪馬台国の場所から、卑弥呼について思いついたことがあるのだが、もしかすると『日巫女』ではなく、「火巫女」の可能性はないだろうか?
熊本市から見た両サイドには阿蘇山や雲仙普賢岳など活火山に囲まれており、噴火や地震が発生していたと考えられる。
その環境であれば山を神とする山岳信仰があってもおかしくはなく、地震や噴火があれば神の怒りを鎮めるための儀式を行う火の巫女として存在していたとしても説明はできそうだ。
北部九州の信仰が山(火)。畿内の信仰は太陽であるならば、邪馬台国とヤマト王権は別グループと考えられるし(妄想の飛躍)。
でも、現在でも熊本が「火の国」とされているのは、何か関係があるのではないかと妄想してしまうには十分なネタだ。(普通に考えれば肥国の巫女で「肥巫女」なんだろうな)

こりゃ、謎を紐解いちゃったかな。
狗奴国の場所が推測通り球磨であれば、邪馬台国の場所については、たぶん当たらずとも遠からずだと思う。
とりあえず自分の中ではスッキリしているので満足。

もしかすると熊本出身の尾田栄一郎先生もこのことに気が付いてしまい、神話や倭国に興味を持ち、それらがワンピースにふんだんに盛り込まれていたりするかもね。なんか火とか溶岩の技強いし(。´・ω・)?


昨日夕方に思いついてから変なテンションになってしまい、勢いもあり徹夜で朝まで書いてしましました。
約11,700字もの長い文章をご拝読いただきありがとうございました。
楽しんでいただけていたら幸いです。

以下おまけ。

侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、

女王国から4,000里ほど南に侏儒(こびと)国があるとのことだが、種子島にてそこでしか見られない特徴を持つ低身長の成人の骨が発掘されており、種子島を比定地とする動きがあるようだ。

そして次が最後。

裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年がかりで着くことができる。

東南方向に船で1年ほど行くと、裸国・黒歯国があるとのこと。
船で1年と言われても島がいっぱいありすぎて見当もつかない。
後のお歯黒文化は黒歯国から持ち込まれたのだろうか?

以上

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