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山岸剛×今福龍太 「Tokyo ru(i)ns」をめぐって 『東京パンデミック カメラがとらえた都市盛衰』(早稲田新書)刊行記念トーク 2021年5月16日@下北沢B&B 2/2

Part 2

■「モノ語り」の世界

今福 『東京パンデミック』という本を通じて、山岸さんは何度も、「モノ語り」を聴く、モノが語るのを聴く、とおっしゃっています。まず本の冒頭が、贈り物、寄り物の写真から始まりますよね。

2020年1月29日、大田区城南島

山岸 はい、<2020年1月29日、大田区城南島>という写真です。これも東京の南端、東京湾に浮かぶ人工島にある海浜公園です。ここに、台風か何かの影響で流れ着いた寄り物、見事な木の塊でした。

今福 こういうのは、山岸さんも書いているけれども、贈り物、異界からやってきた異物としての贈り物、ある種の贈与ですよね。これは奄美や沖縄だと、海に寄り着くものという意味で「寄りモノ」、あるいは「寄(ゆ)りムン」などと呼びます。ぼくもこの「寄りムン」というのがとても好きで、海岸に行くといつも探しているんですけれども(笑)、奄美ですとときにはフィリピンあたりから流れ着いた直径1メートルを越える巨大な材木なんかもあったりします。この「ムン」というのがモノのことです。「ムン」は、もちろん物質なんだけれども、物質を超える、ある怪しい、神秘的な、精神的な贈与物でもある。ここには言わば、世界あるいは自然を律する理(ことわり)のようなものが書き込まれているわけです。理(ことわり)といっても数学的な「定理」なんかとは違って、抽象化することのできない、世界の、生命の見えざる、大いなる法則性のようなものです。

 唐突に聞こえると思いますが、憲法改定という問題がありますよね。ここ数年来、国会とか閣議などで現行憲法の精神を踏みにじるような決定がなされていくなかで、そうした空気を嫌なものとして感じながら過ごしてきました。それに対して色々な抵抗の仕方があると思いますが、ぼく自身は、奄美や沖縄に深くかかわっていくなかで、この群島的世界で、この憲法という概念に相当するものは何なのか? と考えるに至ったんです。というのも、ここには「憲法」などというものはない、というか、これら群島のヴァナキュラーな世界においては、「憲法」などという概念語によって人は生きていないわけです。われわれはこの文明社会のなかで、文字化された概念によって武装し、またそれに支配されながら、自分たちの生き方のロジックを組み立て直してしまっているから、「憲法」という言葉でもって、例えば「自由」について考えたりできるわけです。けれども一方で、奄美の漁民であるとか、サトウキビ農家の農夫であるとか、紬(つむぎ)を織っている高齢の婦人たちにとっては、「憲法」などという言葉は、およそ自分たちの命を左右するものとしてはあり得なくて、単に異物なわけです。

 そこでぼくは、「憲法」という言葉を言い替えていく必要があるだろうと感じたわけです。これはちょっと馬鹿げた話のように聞こえるかもしれませんが(笑)、奄美に行っておじいちゃんおばあちゃんに、「憲法という言葉に替わる土地言葉はないですか? 奄美の言葉で知りたいんです」って聞いてまわったんです。するとみんな最初は「うーん、ケンポウに当たる言葉ねえ、そんな抽象的な言葉はないよねえ……」なんて言うのですが、聞いていくうちに「ムン知らせ」という言葉が出てきたんです。いちおう日本語的に言えば、ものの知らせ、ということです。ただちょっとニュアンスが違っていて、例えば「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」というような使い方をするんです。

 奄美の群島に住む人々にとって、水というのはとりわけ重要な物質です。河川のほとんどない島では、降った雨が地下の珊瑚層に溜まって、その地下水を井戸や井川から汲み上げて生活しています。そういう水の湧くところに集落ができて人間が住み始める。そういう意味で水の存在が人間の集落の原点にあるわけです。「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」という言いかたは、水という根源的な物質に、人間の生命の、あるいは自然全体の、ある理(ことわり)が書き込まれてあるということなんです。もちろん水は人間に災害をもたらすこともあります。そういったこともふまえたうえで、単に「恵みの水」というだけでない、水という物質によって循環していく生命体の秩序のようなもの、それを「水のムン知らせ」と言っている。ぼくはそれを聞いて、これは「憲法」などという言葉よりはるかに根源的な言葉だと驚きました。以来、いわゆる憲法の問題を考えるとき、いつもこの「ムン知らせ」というヴァナキュラーで身体的なことばをかたわらに置いて考えるようにしているんです。

 ムン、あるいはモノ。いまのわれわれは「モノ=物質」とあっさりと捉えてしまいますが、いま言ったように、この「ムン知らせ」まで遡れば、モノというのはきわめて複雑で神秘的な、あるスピリチュアルな存在ですよね。「もの悲しい」とか「もの寂しい」とか言うときに、なぜ「モノ」とつけるのか。山岸さんも「妖怪」と書いていますが、物の怪(け)もモノですし、奄美にも「ケンムン」というガジュマルの樹に住む妖怪がいます。こういうモノの世界を徹底的に扱うんだ、という山岸さんの宣言は、まさにわれわれがこの「モノ」とか「ムン」という言葉のなかで考えようとしてきたこと、感じてきたことすべてに、もう一度引き戻す試みになっていると思います。山岸さんの視線が東京をモノとして見るというとき、それはたんにコンクリートとかプラスティックとかいうフィジカルな物質体としてだけ見ているのではない、と強く感じます。

山岸 憲法を言い替えていくとモノになる……というのはヤバいというか、興奮します(笑)。

 「モノの理(ことわり)、モノの循環、モノの記憶。「幽霊」にはそれが理解できない。上っ面の、人間的なものにだけ右往左往しているからである」と、『東京パンデミック』に書きました。そして、モノの怪(け)、「妖怪」にならなければいけない、と。

今福 ヒューマンな「物語」というのは消費しやすいわけですよね。一方で「ムン語り」「モノ語り」というのはそうたやすく消費したり感動したりできるものではない。畏怖とともにあることばです。

山岸 こちらがどうこうできる、コントロールできるようなものではないですからね。

今福 そういう「モノ語り」に戻る、そういうきっかけが、東京のような風景を媒介にしても可能なのだ、ということを山岸さんはとても刺激的に提示されていると思います。

■ 石牟礼道子が描く「道」の深み

今福 山岸さんはこの本のなかで、石牟礼道子さんの『椿の海の記』(河出文庫、2013年)のなかの「往還道」という文章についてふれながら、「東京で、やたらと道を撮っている」と書いていますよね。道、地表面を撮っていると。

山岸 そうですね。これも本に書きましたが、やはり東北で撮影を続けた9年で、地表の見方、見え方がガラッと変わりました。東京でも、気づいたら、道であるとか、地表の裂け目とか、土が露出したようなところをやたらと撮影していた。ポール・ヴァレリーの「もっとも深いものは表皮である」という言葉がありますが、まさにそれで、表面、地表、道こそがある「深み」を見せてくれる。そして石牟礼さんの「往還道」という文章が、それを克明に、ほとんど博物誌的にお書きになっていて、大好きな文章です。

今福 実はぼくは数年前から天草に通っています。石牟礼道子さんのおじいさん、お父さんは天草上島の下浦という村の石工なんですね。石工の棟梁です。そうした天草の石工たちが遺したたくさんの石橋、鳥居や石垣などを訪れて、石工の手わざ、手に残る文化、技芸といったものを見て回っています。

 石牟礼さんが生まれたとき、このときはまだ吉田姓でしたけど、お父さんは天草で道を造っていて、それで道子と名付けられたわけですね。だから結婚したのちの姓の石牟礼も偶然ではありますが、石工の娘である道子、というわけで石牟礼さんのなかで「石」と「道」は一体化したものとしてあるわけです。だから石牟礼道子という人の世界の奥深い源泉を知るためにも、ぼくはこうした石工の遺した仕事の痕跡をたどる巡礼を続けているんです。

 その石牟礼道子さんが書かれた「往還道」というのは凄い文章です。チッソの工場ができたこともあって、天草の海の向こうの水俣で、港湾や道路の整備が必要になって、多くの天草石工が水俣に移り住んだわけですけど、石牟礼さんのおじいさん、お父さんも水俣に引っ越した。その水俣の自分の家の前の道、そこは女郎屋やら飲食店やらさまざまの店が立ち並ぶ道だったのですが、その道の表面に残された人間たちの一日の仕事や活動の痕跡を、もう本当に克明に書き上げていくわけです。

 それを「地紋」と書いてます。「地」の「紋」。馬が荷車を引いていったそのわだち、ひづめの跡、そして馬糞。荷馬車がこぼしていく米や粟の粒、木炭のかけら。それから木を伐って引いていく人たちがいたのでしょう、梢をつけたままの杉や檜の木が、地面を箒のように掃いていった筋が残る。それは跡がつくばかりじゃなくて、杉の木のつーんとした匂いまで残していく。ほかにも、花売りの女がこぼしていく花の実や蕾とか……

山岸 その馬糞なんかも誰ともなく塵取りで片付けられて、畑なんかに戻されていくんですよね。

2020年4月26日、江東区中央防波堤

今福 そう、さっきの山岸さんの小動物の死骸じゃないけれど、そうやって循環していく。それで道子さん、幼い「みっちん」はそういう道を、天秤棒に担がれて、片方はそれこそ馬糞なんかが入っているわけだけど、一緒に担がれて、道を揺られて運ばれていくんですよね。

山岸 人間も人間以外も分け隔てなく、清濁も併せ呑んで、個物が一つ一つ克明に、緻密に描写されていく。

今福 これってまさにムン=モノの世界ですよね。地表に残された一つ一つは物質といえば物質なんだけれども、単にフィジカルな物質にとどまらないわけです。そこに人間たちの心もちとか思いとか、すべてが組み込まれたものとして、道に、地の紋すなわち「地紋」として残っている。だから山岸さんは震災後の東北の瓦礫のなかで、それまで覆い隠されてきた、深層に宿していたムン=モノの世界が露出してきたのを見たわけですよね。これは先ほどの多木さんの、瓦礫に帰した故郷の神戸に相い対したときの多木さんの経験とも通ずるものでないかと思います。

■ 「瓦礫」の聖性を引き受ける

今福 今日の話題であるru(i)n、これは廃墟と訳してもいいけど「瓦礫」とも言えるわけです。英語だとrubbleとかdebrisとも言いますね。この「瓦礫」について、震災後に、ぼくが少し気になったことがありました。

 山岸さんが東北で仕事をされていたとき、言うまでもなく、たくさんの瓦礫が露出していたと思います。まさにそんなとき、ある新聞で記者が書いた記事を読んだのです。そこにはその記者が、自分たちは瓦礫という言葉を即物的に使ってきた、ある意味では過剰に使って報道してきた。だけどあるとき、被災者の方に、「瓦礫」なんて言わないで欲しい、そこには自分たちのこれまでの生活が、大事な、愛おしい記憶が刻まれたものだから、「瓦礫」なんかじゃないんだ。そんなふうに言われた。それを聞いて記者は、たしかに自分たちはそれらをあまりにあっさりと「瓦礫」として即物的に片付けてしまっていた、少し反省しなければいけない。と、そんな内容の記事をたまたま目にしたんですね。

 でもそこで、ぼくはさらにひねくれていますから(笑)、それを読んだとき、記者はそんな遠慮をしてはいけないのではないか、と直観的に思った。瓦礫というものをそういうふうに、生活に関わった遺物として、センティメンタルなものとして捉えるということは、今日ここでわれわれがしているように、廃墟や瓦礫というものを深く考えていくときには、邪魔になるのではないか。まさにベンヤミンが、既存のものを瓦礫に帰す、ということを「破壊的性格」というテクストで言っています。そして目的は瓦礫ではなく、瓦礫のあいだを縫う道だ、それを見つけることだ、と。すべてのものは持続的ではない、というところからものを考える。そのためには、ときに、すべてのものを瓦礫に帰さなければならない。そういうことが必要なときがあるのだ、と。ゆえに自分はつねに、瓦礫のなかの交差点に立っているのだ、とも言っています。ここまで「瓦礫」というものを深く考えた人がいる。

2011年5月1日、岩手県宮古市田老野原

 しかも「瓦礫」という言葉は日本においてもそもそもは否定的なニュアンスをもったものではなかったと思うのです。だからむしろ、ベンヤミンが言う意味での「瓦礫」を、われわれはきちんと引き受けなければいけないし、そこからしか、その先を語ることはできないのではないか、と。

 民俗学的に言うと「瓦礫」というのは「瓦(かわら)」と「礫(れき)」つまり小石のことですね。かわらと小石です。まったく否定的な言葉ではありません。そして、この瓦とか礫というものは、民俗学的には祈りとか祈願の所作と結びついているものです。「瓦投げ」というのは現在も日本各地のお祭りで行われている、お祓いとか祈りの儀式です。あるいは、亡くなった親族が生前使っていた茶碗などを割って捨てる、これも瓦礫です。「かわらけ」とか言っていて、今でもお墓などによく置いてありますよね。さらに「礫(れき)」、小石、「つぶて」ですね、これを川を挟んで人々が投げ合ってコミュニケーションをとる、そういう民俗もあります。だから「瓦(かわら)」と「礫(れき)」、いずれにしても人間にとって呪術的とも言えるような、聖なる呪物とさえいえるもので……

山岸 まさにムン=モノであるわけですね。

今福 まさにそうなんです。だから「瓦礫」というモノは、こういった壊れたモノ、遺物あるいは小石とかいったモノを通じて、人間が「歴史」を深く考える手がかりだったわけです。今、「瓦礫なんて呼ばないで下さい」というようなことを言う人が多いということは、こういう「瓦礫」という言葉の根っこにある心性、ムン=モノに通じるメンタリティが消えてしまっているということだと思います。それはすごく残念なことです。そういう集合的な記憶のなかで、「瓦礫」というものを、長い間、人間は歴史的に経験してきた。だからこそ「瓦礫」というモノに、決してネガティブではない、もっと重層的な、聖なる意味が与えられもするわけです。ひるがえって今、われわれが瓦礫や廃墟を前にしたとき、「瓦礫」というモノを、あるいは「瓦礫」という言葉そのものを、真に深く受けとめているのかどうか。真に引き受けているのか。山岸さんの写真は、東北でも東京でも、その引き受けをやろうとしているのだと思います。

■ 大地の普遍的な性格をどう捉えるか

2021年1月11日、江東区海の森
2012年8月21日、岩手県釜石市唐丹町花露辺


今福 『東京パンデミック』の30章にある「大地は動く」というのも、ぼく自身が震災後、ずっと考えてきたことと、とても響き合います。

 『津波の後の第一講』(今福龍太・鵜飼哲編、2012年、岩波書店)という本に収めた、「なゐふる思想──震える群島の起源」という文章があります。大学というのは4月に始まりますから、3月11日というのはちょうど、新学期にどんな話をしようかと考えている時期なんですね。そんなときにあの、大きな出来事が起きて、それまでに考えていた授業のプラン、それはすべてご破算になった。4月に学生たちと初めて会うとき、この出来事がなかったかのようにして授業を始めることは不可能でしたから。しかしだからといって、あれを単に卑近な悲劇として、オロオロしながら語るというのは、ものを考える人間として、あってはならないことでした。だからあの大きな出来事に対して、どのような距離をとって、それについて考えるか。そしてそのきっかけをどうしたら学生たちと共有することができるか。それをぼくなりに考えて、考え抜いて、4月の冒頭に授業で話しました。それを元に文章にしたのが「なゐふる思想──震える群島の起源」という文章です。

 このときに「なゐ」という日本の古い言葉、地震を意味する言葉に注目しました。この「なゐ」という言葉は、現在は「地震」を表しますが、元々は「大地」を表す言葉だった。この「なゐ」が「ふる」、つまり震える、それで「地震」のことを表した。それがいつしか「なゐ」だけで「地震」を意味するようになったわけです。でもそれは省略したというのではなく、古くからこの火山列島に住んでいた日本人にとって、震えるものがすなわち大地だったわけです。だからこそ「なゐ」だけで「地震」が表せるようになったのではないか。もっと言えば「な」、どうやらツングース語など北方系の言葉で「な」は「大地」を意味した。だから「雪崩(なだれ)」なんて言いますが、これは「な」つまり大地が崩れる、落ちるわけです。そんな風に考えて「なゐふる思想」を書いたわけです。

 山岸さんの「大地は動く」という文章も、「動く」ということを大地の普遍的な属性として捉えているわけですね。そしてそこで、三陸沿岸部にたくさん残っているアイヌ語の地名について書かれています。アイヌの地名を見ていくと、それはだいたい大地の性格にちなんで名付けられている。

2013年1月15日、岩手県釜石市唐丹町花露辺

山岸 まさに「地の理(ことわり)」なわけです。そして他方、「地の利(り)」というものがある。和人はその「地の利(り)」に走り、そこで「災害」に会った。一方で、アイヌの人々は「地の理(ことわり)」にとどまったと言える。そのことが地名と地形そして地層から、まさに如実に浮かび上がってくるのです。

今福 今回のものも含めた地震というものを、「災害」と捉えるか。あるいはそれは大地が、自らの属性つまり本性にしたがって揺れた、それだけのことなのだ、と捉えるか。アイヌの人たちはやはり後者の捉え方だということが、色々な証言から明らかになっていますよね。

■ アイヌのエカシの「無鉄砲」が表すもの

山岸 アイヌについてはやはり、「エカシ(長老)」のことをぜひお伺いしたいです。『薄墨色の文法』に収められている一章、「風聞の身体」に出てくる「無鉄砲」なエカシについてです。熊狩りのために山に入る際、このエカシは、さかんに自らの「無鉄砲」さを強調するわけですね。「無鉄砲」というのは常識で考えれば「無謀さ」あるいは「向こう見ず」な態度であるわけですが、エカシの話を聞いていると、どうにも辻褄が合わない。アイヌ=人間にとってのカムイ=熊、つまり神の化身と出会うために聖なる山に入るエカシの「無鉄砲」なる言葉は、どう考えても正反対の、繊細さ、慎重さを意味している。

今福 まったく「向こう見ず」ではなかったわけです。

山岸 今回の本で私は「向こう」ということについて書きました。「向こう」という言葉の語根には「むかし」がある。「むかし」すなわち「昔」の時空というものは、それこそクロノス的な、過ぎ去った物理的な過去を表す「いにしえ」とはちがって、まさに「向こう」からやってくる、われわれがコントロールすることのできないものであると。まさに向こうから到来するモノ=ムンなわけです。そうした「むこう=むかし」としての聖なる山に、モノ=ムンとしての熊の世界に入っていく「無鉄砲」なアイヌのエカシが、「向こう見ず」であるはずがない。

今福 あの話を聞いたときは、ぼくも本当に驚きました。なにせ最初は言葉がうまく通じなかったわけです。石狩アイヌの長老だった豊川重雄エカシは、とにかく自分は「無鉄砲」で山に入った、「無鉄砲」に山を歩いた……と言うわけですが、聞いているこちらは当初、比喩だとばかり思っていたわけです。しかし、熊に直に出喰わさないように、慎重に慎重を期して「無鉄砲」で山に入ったのだ、などと言うわけです。「向こう見ず」に行ったのではないと強調しながら「無鉄砲」をさかんに言うのですから、訳が分からない。そうしたら何と、それはもう非常に即物的に「鉄砲を持ってなかった」という意味だった。山に入るとき、鉄砲を持たないことによって、どこまで人間が熊の世界に配慮し、慎重に、繊細に動かなくてはならないか。そのことを「無鉄砲」という言葉が表していたわけです。

山岸 鉄砲なしで、いわば裸一貫じゃないですが、そういう態勢で、いかに「むこう」に自らを身体ごと浸透させていくか。チューニング、調律していくか。

今福 そう、アイヌの人たちにとって「鉄砲」というのは、自分たちの道具ではなかったわけです。アイヌとカムイのあいだで、文字通り「異物」としてあった。

山岸 先ほどの奄美のおばあちゃんにとっての「憲法」のような。

今福 そう、「無鉄砲」ということばは、彼らアイヌの世界観のなかで使うと、われわれとは全く正反対の意味を担って現れるわけですね。

 実はこれは「風聞の身体」には書きませんでしたが、この豊川エカシには後日譚があります。

 アイヌにかぎらず、世界中の多くの先住民たち、部族民たちが自分たちの生活習慣、まさに自らに固有の「ムン知らせ」をいかに守っていくかを考え続け、多くはそれに失敗し、新しい近代的な秩序に巻き込まれて生活をしているわけです。そうしたなかでこの豊川エカシは、自分たちの征服者である和人たち、われわれ日本人の世界というものがどのようにして出来あがっているかを徹底的に、自らの身を以って知るべく、ある観光アイヌ村に出向くんです。そこで木彫りの熊を彫る、いわば見世物としての観光アイヌに身をやつしたわけです。彼はすごい技術をもったエカシだから、見事な木彫りをつくるわけですが、それを一つの観光行為として、自らを和人に差し出して、その反応を徹底的に観察するわけです。そうすると、この「観光」と呼ばれる、一つの近代イデオロギーの全体像が見えてくる。見世物として自ら観光アイヌに身をやつし、それによってそのイデオロギーに身体ごと浸透していく、身を投じて体感していく。あるいは身体に摂り込んでいくわけです。

山岸 それはまったく質は異なれど、方向は異なれど、カムイの聖なる山に「無鉄砲」で入っていくのと同じ事態なわけですよね。

今福 そうですね、一つのシミュレーションとして、あるいは擬態(ミメーシス)として、同じことをやっている。結果、自らの身体を浸透させていったその先に発見したものは、どうにも不毛な、陳腐な一つの世界観であったわけです。それはつまり我々の文明社会がもっている観光とか消費的な世界観ですね。

■ 廃墟を動かすこと、東京の風景を動かすこと

今福 山岸さんにひとつ聞きたいのは、東京のこういう風景を撮り続けている山岸さんの……どう言ったらいいかな、山岸さんのなかにある「矛盾」……ではないな、いわば「思い切り」があると思うんです。この風景に対峙するしかないんだ、という「思い切り」。この東京の風景は、そこに可能性を見い出すことのできる風景であるという以上に、われわれが行き着いてしまった、どうにも避けがたい、一種どうにも出口のない、一つの文明の末路の風景なわけでしょう? それと向き合い続けて、それに対して遅延されたシャッターを押し続けている、そういう山岸さんのなかにある「思い切り」。葛藤なんていうもんじゃないと思うんですね。それを知りたいと思うんです。

山岸 うーん……確かにおっしゃるその通り、東京は撮っていて、気持ちのいいものじゃありません(笑)。まさにやむなく、やむをえず撮っている。私にとっては、撮らざるをえない風景です。

 ある人が今回の本を読んで、東北から見返した東京だ、と言ってくれました。震災直後、私にとって、東北で撮影するというのはほとんど快楽的な経験でした。人工物のための人工物でがんじがらめになった東京を離れて、圧倒的な自然の力に出会っている東北の人工物は、その風景は清々しく、ほとんど健康に見えました。誤解を恐れずに言えば、とても明るい気持ちで仕事をしていました。東北に通うことで、東北で写真を撮ることで、私自身の健康が保たれていたと言っていい。でも年を追うごとに防潮堤ができ、建売住宅のようなものが林立していくなかで、それは挫折していったわけです。東北の写真集にまとめた写真の最後のものは2018年の夏あたりでしたけれど、もうその頃になるとほとんど撮れないわけです。撮る気がまったく起きない。

 そうこうするうちに東京ではオリンピックをやる、ということになっていた。東北で仕事をはじめた当初から、これは東京の問題だと思って取り組んでいましたが、オリンピックが云々され、挫折感が頭をもたげはじめた頃から、ある閉塞感のなかで、次は東京を撮るしかない、東北と地続きの問題として東京を撮らざるをえないのだと感じていました。やむをえず、それこそ追い込まれるようにして東京を撮っている。ほとんど撮れない、ということも含めて、東京を撮り続けることを苦痛に思うことさえあります。

今福 今日の話の冒頭で紹介していただいた、「廃墟」をめぐる多木浩二さんとの対話(『知のケーススタディ』)のなかで、ぼくはもう一つ触れていたことがあります。それはruinつまり遺跡についての話で、「ストーンヘンジ」遺跡を調査した考古学者バーバラ・ベンダーの研究についてです。それによればこの巨石文化の石の配列は、その変遷を見ていくと、どうやら時代ごとに組み替えられているということが発見された。石の配列はフィックスしたものではなく、その都度シャッフルして組み直されていた。だからやはり遺跡自体が動いている、走っているのだ、という話ですが、そのとき、ぼくはこのことを「エンゲージメント」という言い方をしました。「介入」とか「アンガージュマン」、政治的にいえばアンガージュマンです。遺跡とか廃墟に対して、人間がずっと昔から行ってきた、あるクリエイティブな介入の仕方、参加の仕方をエンゲージメントあるいはアンガージュマンと言っていいと思うんです。ruinに対して、それを静止した過去の遺物として、あるいは単に悲劇的なものとして固定化するのではなく、そこにどうやって介入していくのか、ということです。

 ぼくはこの20年来「奄美自由大学」というプロジェクトをやってます。奄美の聖地であるウタキ、そうした場所というのは現在、多くは例えば御影石の碑が建って、史跡として保存され、周囲には柵がめぐらされて立ち入り禁止になっていたりするわけです。けれどもそこは本来、非常に古い人間の住居跡だったり、あるいはかつてのお墓だったり、つまりとてもスピリチュアルな場所だったわけです。そこで人間は神遊びをしたり、踊りを踊ったりしてきた。つまり人間が積極的に介入し、エンゲージ、つまり参加してきた場所なわけです。聖地というのはそういうふうに人間が介入していく場所だった。そこを立ち入り禁止にして、神様にひれ伏し、崇める場所だ、という認識はごく最近のものであって、本来はそうではなかった。

 だからぼくたちも「奄美自由大学」の活動のなかで、奄美のウタキで、そうした聖地にいかに介入し、いわばスピリチュアルなものとの対話を求めて、場所への畏敬の念とともに、そこで踊りを踊ったり、唄をうたったり、あるいは詩の朗読をしたりしています。それがエンゲージメントあるいはアンガージュマンです。そういう意味で、山岸さんは写真を撮影する行為を通じて、東京の風景に介入しているのだと思う。「妖怪になる」と山岸さんは書いてたけど、まさにスピリチュアルな存在になって、東京の風景にエンゲージしているのではないでしょうか。山岸さんの介入による、風景の「動き」が、山岸さんの写真には確かに在ると思うのです。

山岸 東北の写真をまとめた本を出したときに、私は、これをまだ「物語」にしない、したくない、むしろ「モノ語り」として遠くに投げたいんだ、と考えていました。今現在の感覚で、安易に感情移入して消費されるものではなく、もっとゴツゴツした手触りのある本に仕上げなければならないと思っていた。それは今の、今福さんの言葉を借りれば、遠くに投げることで、いわば未来へエンゲージする、未来でエンゲージするためのアーカイヴ=資料としての本にするということだったのだと思います。

 そしてru(i)nというものも、今日のお話のなかで、これは動いているものなのだ、ということをずっと話してきましたが、「動く」だけではなく、我々が「動かしていく」ものなのだ、ゆえにこそru(i)nは動いているのだ、ということがよく分かりました。

 自分の仕事が、東京の風景を「動かしていく」。その可能性に気づかせていただきました。終わりのない、ときに苦痛さえおぼえる東京撮影行に、一条の光が差しました。今日は本当にありがとうございます。いただいた貴重な言葉を糧に、撮影を続けていきたいと思います。

(了)

構成・文責:山岸剛
編集協力:深澤晃平
写真:©山岸剛


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