見出し画像

「物語り」を「物語」にする仕事です

4月が終わりそうで寂しい。5月の終わりも8月の終わりも寂しいけど、4月はとくにそう感じる気がする。4月は何かが始まりそうな季節で、多分、その「始まりそう」が終わるから、一層そう感じるのかもしれない。また、「始まりそう」なだけで、何も始まらなかった4月が終わりを迎えようとしている。

そんな毎年恒例の生ぬるい感傷に抵抗しようと思って、登録だけしてずっと放置していたnoteを書き始めている。こんにちは、はじめまして……うーん。知らない人に読んでもらうイメージができない。ここで書いている人たちは皆すごいなあと、あらためて思う。

思ったことを即物的に書いてみている。昨日と同じ豆で淹れたコーヒーが、いつもより苦く感じる。昨日より鼻が詰まっている。いま、五感が少し敏感になっているような気がする。

文章を書いて暮らしている。ジャンルはその時々で変わるけど、人に話を聞いて記事にすることが、主な仕事だ。もう少し抽象的に、好みを含めて言うと「フィクションじゃない物語を書くこと」が、担いたい、自負できる役割なのかなと思っている。

なので、今年から肩書きを「story/writer」にしている。小説家ではないけど、書き手という分母で、物語という分子を扱う。と言っても、SNSも全然やってないし、面倒くさがって名刺もつくっていないので、名乗る機会はほとんどない。仕事用のメールの末尾に、こっそり忍ばせている程度だ。

物語とは何だろう、と最近よく考える。英語には“物語”を表す言葉に、「story」と「narrative(ナラティヴ)」がある。いろいろ調べた上で、自分なりに解釈してみると、前者は静的で後者は動的だ。…むむ、かたくるしい。もう少し柔らかく煮崩したい。

「story」は、始まりがあって終わりが用意されている、ひとまとまりの“物語”だ。ひとつのエピソードとして完結しているもの、映画や小説もそうだし、インタビュー記事なんかも、この部類に入るだろう。

「narrative」は、これは結構むずかしいのだけど、人が物を語る行為だったり、人が持っている語りそのものだったり、するらしい。私たちはそれぞれ、別々の物語の主人公(ヒーロー的!というニュアンスじゃなくて「あくまでそのお話の一人称ですよ」という意味)として生きていて、その物語の行く末は誰にもわからない。それどころか、「ももたろう」的に進んでいたものが、途中で解釈が変わって「白雪姫」的にさま変わりすることもあり得る。そういう意味での、うねり続ける生ものとして物語が、「narrative」。

ここからは完全に個人的な意味づけで、つまり「narrative」は“その人の人生そのもの全体”であって、そこから一部を切り出して加工したものが「story」になるんだろう、と思っている。誰かの「物語り」を、多くの人たちと共有できるよう「物語」にパッケージングするのが、いまの私の仕事だ。

先日、soarという媒体のスタッフである松本綾香さんに話を聞いた。松本さんも、人に話を聞いてものを書く生業に携わっている。

取材を終えた後、彼女からお礼のメッセージが届いて、こんなことが書かれていた。

「最近、ことばの力を考えると同時に、言語化することの危うさみたいなものを考えています」

この言葉を見て、なんというか、私はとっても嬉しかったのです。自分もすごく考えていることだったし、その危うさ、怖さに向き合う人がいる媒体は、とても心強いと思った。

人の人生は、たかだか10万や20万の文字数で語り切れるものじゃない。それを、4000字や5000字、場合によっては800字程度で強引にまとめたりする、そんな業の深い仕事です。

誰かのことを書くとき、その人について「書いて見せる」部分よりも、「書かれていない」部分の方が、いつだって圧倒的に、途方もなく圧倒的に多い。書いて「伝えている」と思い込んでいるだけで、本当はそこに書かれなかった多くのことを、隠してしまっている意味合いの方が、ずっと大きいのかもしれない。

そして、直接の面識を持てない読み手にとっては、書かれていることが、その人の“ほとんどすべて”として捉えられてしまいがちだ。これは、「想像力のない読み手がいけない」という話ではなくて、なんというか、致し方のないことだと思う。

「narrative」は生ものだ。1年後、その人の持つ物語は、おそらく大なり小なり変わっているだろう。極端な話、明日には変わっているかもしれない。それを、「story」は標本のように、ある瞬間でピン止めしてしまう。メディアに載せれば、残ってしまう。ここに、言語化の危うさがある。

生きている人たちの「narrative」を「story」にする行為は、今なお動き続けている誰かの人生を、ある一点、ある方向性で縛りつけてしまう危険性がある。意図せずとも、そうなってしまうかもしれない。

「僕はゲイです」「私は難病を患っています」「貴方は社会起業家なんですね」——誰かの語りを物語化にするためには、ラベリングが便利だ。その属性を道筋に、ストーリーをつくりやすいから。けれども、それらはその人のほんの一部でしかない。

ゲイの彼はアクション映画が好きで、昔はジャッキーチェンに憧れて、うさんくさいビデオ教材で通信カラテを修めていて、最近はクラブマガにハマっているのかもしれない。難病の彼女は、実は昔から少女マンガが好きで、とくに好きなのがコテコテの泣けるやつで、好きだから周りの友だちに勧めるのだけど、たまにヒロインが余命宣告されちゃうような話が混ざっていて、「縁起でもないからやめろ!」って怒られたんですよね、でも「好きなものは好きだからしょうがないじゃんお前こそ二次元と三次元ちゃんと切り替えろよ!!!」って逆ギレしたら、なんだかおかしくなって皆で笑っちゃって…みたいなことを話す、小ざっぱりとした人なのかもしれない(これはたとえ話なのだけど、とある身近な現実がモチーフになっていることは、合わせてお伝えしておきたい)。

一人ひとりが多様であるのと同じように、その人ひとりの中だって、十分に多様なのだ。いいトコだってあるし、どうしようもないトコだってある。昨日よりも今日は、少しやさしくなっているかもしれない。今日よりも明日は、少し意地悪な性格になっているかもしれない。

そんな「個人の中にある多様性」を、いかにストーリーの中に残せるか。ここと向き合って考え始めると、もうキリがなくて胃がキリキリする。

過剰な困難や苦労、苦しみ、挫折、成功、教訓めいた気づき、明日への希望、こうした要素を無理やり背負わせないことが、どれほど大切か。結局は「いい話」になるにしても、それを「いい話」ありきで書かないことが、どれほど難しいか。

ほかのメディアでも同様だと思うんですけど、とくにsoarで扱うテーマには「正解がないこと」を強く感じています。いまは正しいと思われている考え方でも、時代が変わればそうじゃなくなることも、あるかもしれません。

松本さんは、インタビューの中でそう語った。100年前の世界には、いまの私たちには信じられないような当たり前が存在していた。それと同様に、100年後の世界にとって信じられない当たり前が、いまここにも存在しているかもしれない。いま「いい話」だと思っていることも、もしかしたらいつか、「ありえない話」になっているのかもしれない。そんなことまで考えていたら、もう怖くて何も発することができなくなってしまいそうだ。


それでも私は、私たちはこの仕事をしている。怖くても、間違っているかもしれなくても、書いて伝えることを続けている。「この物語りに出合えて、生きるのが楽になった」「新しい希望の道筋が見えた」「なんかよくわからないけど、すごく大事な気がする」と感じたこと、それをお節介にも、押しつけがましくはならないように、少しでも広めたいから。その情報がどこかにある、調べたらたどり着けるという状態が、せっぱ詰まった誰かにとっての、セーフティネットになるかもしれないから。

まあ、私個人は外から見て、そんなにドラマチックな仕事ばかりをしているわけではないのだけれど。soarという媒体には、そんなストーリーがあふれている。

前述を参考にしながら小難しく言えば、人の「narrative」を大切にした「story」が、ここにはたくさん置いてある。知らなかった人には、いちど見てみてほしい。

これからも、「物語り」を「物語」にする怖さにおびえながら、それでも伝えたいと思える物語に寄り添って、この仕事を続けられたらいいなと願っています。

より佳く生きていこうと思います(・ω・)