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天邪鬼の幸福論

私は天邪鬼とよく言われます。
真っ直ぐに素直に考えることもできるのですが、
すぐに裏をかきたくなる。

幸福論について興味がある時、
同時に俯瞰な見方をするのが楽しい時だった。

幸福論という視点から考えるのではなく、
更に上の視点から考えた時、
幸福論に対比した考えや、類似した考えはなんなんだろうかと考えた。

不幸論という言葉はないものの、
不幸になる、幸福になる、の違いは何なんだろうか、
と考えていた。

そして、そのどちらが幸福なのだろうか?と。

また、よく幸福論は見かけるのだが、
なぜ一元的に皆、幸福が最終ゴールだと言わんばかりに、
幸福になろうとするのか、と。

幸せであれば、なんでもいいのだろうか?と考えるようになった。

それはつまり、不幸だって、いいんじゃないのか?
最終的には、不幸なのは嫌なのかもしれないが、
不幸を感じたからこそ、幸福に転じることもあるのではないか。

例えばある場面で、
不幸を経験することにより、嫌な思いをし、それを乗り越えというか、
経験、その嫌な感情をちゃんと受け止め、乗り越えるというか、そのように感じることを通過することにより、
次同じ局面になっても、

「ああ、前にこういう場面があったな。
あの時、あまり心地良くなかったから、この場面は感情的に防衛して、嫌な感情を覚悟しておこう」

具体的に例えば身近な存在の死があるかもしれない。
それが人であれ、動物であれ、死は別れとその存在の再会、再確認がある。
近い友人だったとしよう。恋人でも、ペットでもいい。

まずは死を受け入れられない。
何が起こったか分からなくて、受け入れたくない。

その友人(恋人、ペット)は自分の生活の一部であり、
その存在が居なくなると、自分の生活は行き場を失う。

いつも一緒にご飯に行ってた、飲みに行ってた、遊びに行ってたのに、
その時間は、じゃあどうすればいいんだ、自分の未来の一部が消えたように感じる。

未来の物語を描き直さないといけなくなる。

なかなかその未来を描き直せない。
代わりもいない。

一人でいる自分の心の居所が分からない。
どのような表情をすればいいのか分からない。
何を喋ればいいのか分からない。

未来が描けないから、この先進みたくなくなる。
想像したくなくなる。先が見えない。
人は先が見通せないと、信じられないくらい自信がなくなる。
気持ち悪い状態になる。

そういう一連の嫌な感情のセットを経験することが、
不幸、幸せというプラスじゃない状態というだけでなく、
マイナスという状態になる。

少し幸せな状態というをのを説明した方が良かった。
数字化できるものではないが、無理矢理数字化するのにお付き合い頂きたい。

人生最高の幸せな状態を+10としよう。
同じように最低に不幸な状態を-10とする。

普段の状態は、0という人もいれば、
1という人もいるかもしれない。
明石家さんまさんが、生きてるだけで丸儲けと言っているが、
生きているだけで、喜びを感じられる人は、
+5で毎日を操業してるかもしれないし、
陽キャラと呼ばれる人たちは、+3~+4くらいで人生を運用してるのかもしれない。

逆に省エネモードで活動している人たちは、
あまり感情にフォーカスせず、無の状態、0で生活してるかもしれないし、
陰キャラと呼ばれる人たちは、少しネガティブな感情を常に持ち、
悲しい、苦しい、卑屈な見方、陰鬱な気持ちで-1感情で過ごしてるかもしれない。

今見てきたように、通常運転の置き方は人によって違う。
それはその人が、その幸福圏内で過ごすことが心地よいのかもしれない。

そして、その幸福圏内操業は簡単に上下する。
朝天気なだけで、+3になる場合があるかもしれないし、
同じ人が同じように晴れている朝でも、
違う要因で、-2になる時もある。

昨日は晴れて、すごくいい気分だったのに、
恋人がこの晴れについて、
「晴れてる日って汗かくし嫌だよね、しかも眩しすぎるっつーの」
という自分とは違う捉え方をしてるだけで、
自分も影響を受け、次の日に晴れてるだけで、
昨日のいい気分とは違う嫌な気分になったりする。

たった一言、恋人がそんなことを言っただけで、
幸福度が左右されたりする。

幸福度の数値化を共有できた所で、
先ほどの友人(恋人、ペット)の死に直面したケースを考えると、分かりやすい。

一度目の身近な死を経験した後、二度目はそれほどのネガティブな感情、不幸を感じることはないかもしれない。

それは1度目に死について、深く考え、受け入れ方がスムーズになったからかもしれないし、自分の未来の描き方が少し上手くなったからかもしれない。

具体的に代わりの身近な存在を見つけたからかもしれないし、仕事や趣味という他の存在を追加することによって、無くならない存在を手に入れたからかもしれない。心の置き方が楽になったのかもしれない。

でも、2度目の身近な死が、前回よりもネガティブになる場合ももちろんある。
たとえば、前の恋人よりも更に依存関係が強くお付き合いしていた人だったので、その存在が無くなることで、心にぽっかり空く穴が前回よりも大きく空いてしまったとか、他に頼れる存在が前回よりも少なくなったとか。

例えば、前回は悲しんでた時に一緒に話聞いてくれたり、慰めてくれる母という存在があったり、親友がいたのに、今は疎遠になって、自分でこの感情を受け止めないといけないような時、ああ、これ一人で受け切れないな。。。と感じて不幸度が前回よりも悪くなることもある。

そしてまた、不幸に対する対処法や免疫が身に付くこともある。

さて、色々と横道に逸れてしまったが、
そんなこんなの幸福論、不幸論を考えるうちに、俺たちって、
別に幸福論だけに縛られる必要がないんじゃない?って考えるようになる。

不幸論も重要なことで、不幸論があるから、幸福論が分かりやすく、心に入ってくることもあるんじゃないか、と思うようになったし、
なにも幸福になることだけを考える必要もないんじゃないの?って思うようにもなった。

だから、幸せになろう!キャンペーンを見てしまうと、
なんか片手落ちだなーと思ったりする。天邪鬼だからw

だからと言って、「不幸になろう!」というキャンペーンは、
今後も一生見かけることはないと思う(笑)

結婚式で「お幸せに」とは言うが、
「お不幸に」なんていう人はいない、当然だが(笑)

だからと言って、普通でいましょう、と言うのも何かおかしいし、
やはり結婚する目的は、究極的には幸せになることなのかもしれない。

でもでも、やっぱり幸福論だけに惑わされる必要はないと訴えたい。
不幸論という本を出版するべきなんじゃないかと思うw 売れないだろうけどw

本の帯には、
「もう幸せに振り回される必要はありません!」とか
「不幸せな人生が最終的には幸せでした」みたいな、
奇怪な宣伝文句が並ぶかもしれない。売れないだろうけどw

天邪鬼思考でよかったなと思うのは、
世間で流布する、当然のように浸透している考え方について、
「本当にそうなんだっけ?」
「違う見方もあるよね」
って自分で考えられること。

それは自分の思考を本当の意味で自由にできることであり、
これまでの固定概念から解放されること。

自分が自由に考えられるようになることにより、
感情についても、俯瞰して捉えられるようになり、
主観的に感情を管理、整理するようになる。

幸福論、不幸論については、書いてる中でもっと色々書けそうだなと思ったので、もう少し考えを整理して、論をまとめていきたいと思います。

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