八月末日 深夜の散文
スペースで好きな本について話していたら久しぶりに読み返したくなって伊坂幸太郎の「モダンタイムス」を読んでいる。既に深夜2時半。
明日12時からある企業の1day仕事講座がある事を考慮すると絶対本を読み返すべきではなかったのだが、涼しい夜には読書が似合うのだから仕方ない。
思えば、8月が終わる。8月は労働の月にすると決めていたから、しっかり働いた。役割はまっとうできたと思う。
夜はかなり涼しくなった。自転車並のスピードで進む台風のサンサンは関西に来るまでに力尽きそうだ。
9月は本を読み、小説を書く月にしたいと思う。既に遊びやバイトの予定がかなりあるのだが、それでも8月に比べれば幾分暇だ。
夏休み前に図書館で借りてきた大量の書籍は机の上に積み上げられたまま山のように動かない。
こいつらを絶対に読み切らなければ、随分自堕落な夏休みを送ってしまったと後悔するに違いない。
小説を読んでいると、ふと自作小説のプロットが思い浮かんだ。ヒラメキとはこの事を言うのか、と気付かされるほど電撃的に、電撃的にというのは突発的かつ瞬間的に、全てのプロットが頭の中で構築された。
ある程度の方向性は決まっていたがそこにバッチリハマるストーリーが思い浮かび、思わず涙がこぼれそうになるほど衝撃を受けた。なんて書くとハードルを上げすぎているがどうせ読んでくれる人なんていないマインドで書いてるので構わない。
2ヶ月の夏休みも、半分が終わった。正確にはテストがなかった自分は7月22日を最後に登校していないのだから、2ヶ月以上ある。大学の休みはなぜこんなに長いのか。
去年まではただ遊ぶだけだったので長期休暇は歓迎すべきものだったが、研究や卒論が迫ってきた今になると、長い休みはかえって不安になる。
だからこそ不動明王の如く動かない書籍の山を踏破しなければならないのだ。
哲学にも足を踏み入れたいと考えている。だからカントの本も借りてきたのだが、果たして理解できるだろうか。
文系大学生たるもの、哲学の1つや2つは語れないといけないのでは、という実体のない強迫観念に脅かされている。
昔から深い人間になりたいと考えていた。機知に富む会話に憧れていた。そういうのが求められるのは平安時代までなのだ、と頭では分かっていても憧れは憧れだ。それが魅力的に見えるのだ。
ただ、周りの人間からして魅力的な人間とは、単に優しい人間であったり、底抜けに明るい人間なのだと気付いた。
今までずーーっと歩いてきた道が、実は遠回りでしたよ、と言われる感覚だ。ただ、遠回りであって、間違いではない。真逆に歩み始めた訳ではない、と言い聞かせる。
人は信じられるものより信じたいものを信じる。遠回りではない、というのはただそうであって欲しいという願望にも近いものだが、それを信じたいのだから信じる。こうやって人の思考は歪んでいくのだな、と感じるがそれは信じたくないので信じない。
先日、後先考えずに行動する友人に向かって、後先考えずに行動できるのが羨ましい、と口にした。相手は貶されているように感じたそうだが、これは本心だった。
虎穴に入らずんば虎子を得ず
おそらく彼女なら虎穴に虎がいるかどうか気にせず虎穴に入るのではないだろうか。
自分なら、と考える。自分なら、虎がいるリスクを考えて虎穴に入らない。結果的に、虎子を得ることはできない。
でも彼女は。彼女は虎に喰われるかもしれないが、虎子を得るかもしれない。
どちらが良いかは人によって感じ方が変わるだろう。ハイリスクハイリターンというやつである。
結局はないものねだりなのかもしれないが、そこで虎穴に入れる人は尊敬するし、そうありたいと思う。
八月末日 深夜の散文
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