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そして僕らは神を信じる

「しゃあんめな」

栃木・茨城出身の人の一部はわかると思う(他でも使うのか?)のだが、これは「仕方がない」「しょうがない」という意味の方言だ。「だって、しゃあんめな」(仕方ないだろ)とか「(寒いのは)冬だからしゃあんめ」(冬だから寒いのはしょうがない)というように使うのですが、「しゃあんめ!」と肩を叩いて励ますような用法もあります。

何年か前に、同窓会の通知が来た。中学校全体の同窓会だ。私の中学校は1学年男女併せて150人ほどだろうか。昔は田舎にもちゃんと子どもたちがいたのだ。帰省のたびに小学校の同窓会(超小規模)だとか、中学・高校の仲のいい連中とは飲んではいたが、こんな大規模な集まりは成人式以来久々だった。

中学を卒業してから20年ほど経っており、すでにみんな立派なおっさんおばさんとなっている。しかし、そんな中年の集まりながら、今どきらしく、連絡はLINEのグループで、出欠管理はスケジュール調整ツールで行うそうだ。成人式の時には狂ったように携帯メールを送りあってたことを考えると、便利な世の中になったものである。LINEの送り主は幹事で、俺も今でも仲が良い幼馴染の一人だ。時候の挨拶から日程、会費などの情報もLINEで過不足なく伝えられ、一緒にエロ本を貸し合っていた友達がこんな無難な連絡をできるようになったことが不思議な気がする。ただ、最後の一文で真顔になってしまった。

「祈祷をするので、会費と別に500円ずつカンパをお願いします」

祈祷。まず疑ったのは誤字である。「亀頭」だろうか。それだと更なる大惨事を引き起こしてしまう。中学生ならともかく、中年のLINEグループに「亀頭」は乱舞していい言葉ではない。いや、中学生でもダメだ。次は「気筒」だが、エンジンの気筒を増やしてどうするというのか。いかにヤンキーが多かった田舎の中学とはいえ、もはや気軽に気筒を増やしていい年齢ではない。由緒正しき暴走族雑誌『チャンプロード』はもう休刊しているのだ。というか、カンパで気筒を増やすな。

そうしてしばらく悩んでいたが、やはりこれは祈祷で間違いがないだろう、という結論に落ち着いた。祈祷である。祈って祷るのである。祷るの読み方がよくわからないが、ともかく祷るのである(「いのる」または「まつる」らしいです)。なるほど、祈祷をするのか。出席者が半分の70人くらいだとして、70×500=35000円。祈祷の相場というものが全く分からないのだが、それくらいかかるものだろうか。安くはないが、みんなで払うなら高くもない。いいじゃないか、祈祷。

でも、なんで?

基本的に自分は無宗教者だ。なんとなく神社に初詣をし、なんとなく親戚が亡くなったら寺で葬式をし、なんとなくクリスマスは祝っているし、あと最近はハロウィンとかにもかこつけて酒も飲んだりもする。全くもってポリシーとか信仰が感じられないわけだが、一般的な日本人というものはこんなものではないだろうか。

そんないい加減な宗教感の自分に、祈祷。唐突に「ねえ今度の日曜日にペタンクやらない?」って誘われたようなものだ。「えっ、行けたら行く」って反射的に返して、慌ててペタンクとは何かを調べるしかない(そして行かない)。

私の困惑をよそに、LINE上には同級生たちの「賛成」「了解」「やろう」という肯定の返事や絵文字が並んだ。同窓会で祈祷をするということ自体もけっこうびっくりしたのだが、それ以上にそれがすんなりとみんなから受け入れられたことが驚きだった。私が危惧した「何言ってんだよ」「冗談?」などの否定的な言葉で幼馴染が責められるかもしれないということなどなく、賛同の嵐。中には「当然!」という回答まである。「同窓会で祈祷をやる」という行為を当然とみなす人というのが自分の分類の中にいなかったので、衝撃的だった。この時の気持ちは、ワニを食べる野球選手の話を聞いた時の感情に近い。

そのまま、1つの反対意見もなく、同窓会で祈祷はやることになったのである。その後、たまたま幹事の幼馴染と別件で連絡を取ることがあった。私はその時にちょっと同窓会の話を振ってみたのだ。幼馴染は「来れるのか」と私に問いかけたが、仕事があるかもと言うと「まあ、しゃあんめな」と例の「仕方ない」という意味の栃木弁で返してくる。そして、私は最大限に何気ない雰囲気を装って、「祈祷、やんの?」と聞いた。

「まあ、そろそろ、しゃあんめな」

そろそろ仕方ない、と。幼馴染が言うには、そろそろ自分らも年を取ってきたし、厄年やら何やらいろいろある。病気で死んだり自死を選んだ人もいる。離婚してしまった者も、仕事がうまくいかずに落ちぶれかけている奴もいる。だから、ここらで一発祈祷をキメるのもしゃあんめということらしい。

私にはその理屈はよくわからなかった。祈祷に効果なんてあるわけがない。迷信としか思えない。祈祷に効果があったらこの世の中は全員が幸せになっていてしかるべきだ。ただ、幼馴染はそうは思ってないようで、「やるのも仕方ない」というスタンスなのだ。幼馴染は元からこういう宗教的な儀式を大事にする人間ではなかった。むしろ、どちらかと言えばそういったスピリチュアルなものや儀式を信じない性質だったと思う。それが年を取ることによって、そういったものに傾倒していくようになった。幼馴染だけではない。同級生たちも同じなのだろう。

なぜ、そういった神的なものを信じるようになるのか。それは、年を取ると自分や周囲の努力ではどうにもならないことが増えていくからだ。若い頃はそんなものを信じなくてもどうにでもなった。金がなくてもちょっと無理をすれば当座の金は稼げたし、両親は元気だし、ちょっと調子悪くても少し寝れば治るし、なによりまだ未来に選択肢があるような気がしたのだ(実際あるかどうかは別として)。しかし、30も後半に差し掛かると、話は違ってくる。家族を養うのに必要な金は増えていく、両親は弱っていき介護が必要になってくる、自分もあちこち悪くなってきた、しかも未来に選択肢なんかはほとんどない。そうなった時に初めて、自分の努力だけではどうやっても解決できない問題があることに気づくのだ。勝者と敗者がくっきりと選別される今の社会状況もかなり影響しているだろう。

そこで、神が登場する。人知を超えて、私たちの運命をなんかよくしてくれる神である。神の種類はなんだっていい。仏だっていいし、アラーだって、キリストだっていいし、ゾロアスターでもスパゲッティモンスターだっていい。それに、神じゃなくたって全然いい。ホメオパシーでも構わない、気功治療だっていい、浄水器だって構わないし、壺を買ったっていいし、波動でもヒーリングでもオーラでもいい。なんならマラドーナだっていいだろう。「効果は科学的・合理的に説明できないが、なんとなく利益がありそうなもの」、「何か理屈がなくてもとにかく人生がうまくいくような気にさせてくれるもの」なら何でもいいのだ。今、自分と家族に起こっている諸問題が現実的に解決不可能な場合、科学の外、合理の外にしか、もう救いの道はない。

私はまだそこまでの境地には辿り着いていない。しかし、また同時に私はこの幼馴染たちを笑うこともできない。何年か前に父親が病気で倒れた時に、母親が怪しげな治療(遠隔気功)に金を払ったのを私は咎められなかったのだ。それだけじゃない、他にも保険外の効果があるのかよくわからない治療をいくつもやった。その時私は効果はないだろうと思ったが「もし効果があったら」という思いもどこかで捨てきれなかった。その場所から一心不乱に祈祷をするまではレオパレスの薄い壁ほどの距離もないだろう。

Netflixに『アイリッシュマン』という映画がある。名匠マーティン・スコセッシ監督がある暗殺者の一生を撮った映画だ。主演は盟友ロバート・デ・ニーロ。数々の人間を葬ってきた冷酷な暗殺者だが、その晩年には子供からも見捨てられ、キリストに祈りを捧げるようになる。傍若無人で神さえも恐れなかった男が、である。その姿と自分や同級生がダブってしまうのだ。

結局、私はその同窓会に参加しなかった。仕事で都合がつかなかった、ということにした。しばらくしてから、LINEにはその時の写真が回ってきた。「いい祈祷だった」という幼馴染の言葉が添えられてある。神主?が祈祷をしている姿を、みんな真剣な面持ちで見守っている姿が写っていた。本当は、無理して仕事を片付ければ出れなくもなかった同窓会だった。でも、そこまでして出る気にならなかったのは、私が祈祷を信じていないからではない。そうではなく、逆にその祈祷に少しでも期待してしまうことが怖かったからだ。私は自分がまだ合理的だと信じたかったのだ。それは、自分が若い頃よりも合理的でなくなってきていることを薄々感じているからかもしれない。

いずれ、私には祈りが必要になる時もあるのだろうか。そうかもしれない。祈祷をお願いするのだろうか?そうかもしれない。厄除けのお札を買うのか?そうかもしれない。それは非科学的だし、効果がないし、根拠も全くない。しかし、人間の一生というものはあまりにもどうにもならないことが多すぎるし、年を取れば取るほど余計にままならなくなっていく。だから、私も神を信じるようになるのだろう、きっと。

そうなっても、まあ、しゃあんめな。

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