親は頭が悪くなる
これはごく個人的な実際の話で、よくよく考えてみれば当たり前の話なのだが、密かに衝撃的なことだったので、簡単に記しておく。つまらない話である。
うちの実家は自営業だ(詳細は省く)。俺が上京する18までは専業だったし、それからしばらくして父親が別の職をやることになってからは、人を雇って自営業を維持してきた。専業でなくなってからは規模を縮小し、人を雇ったのもほとんど慈善事業みたいな感じになっていて、収支はトントンくらいになっていた。ここらへんで長男の俺は一度家を継がないか?と打診を受けて断っている。理由としては自営業のキツさを手伝い等をやって身を持って知っていたし、もう何年も故郷を離れている俺に居場所はなさそうな気がしたからだ。
そんなこんなでまあまあ平和にやっていたのだが、転機は突如訪れる。父親が倒れたのだ。命に別状はなかったが、別の職は辞めざるを得なくなり、また自営業を再び始めることもできなくなった。ここで長男である俺が実家を継がないまでも、ある程度家の面倒を見なければならないだろうと漠然と思っていた。東京で働きながら実家の面倒まで見れるのか。このときには全く見当もつかなかった。
だが、ここで救世主現る。妹夫婦が後継者に名乗りを上げたのだ。実家とは別の地域で仕事をしていた妹夫婦だが、両親が心配ということで帰ってくることとなった。親としては願ったり叶ったりであろう。都会でふらふらして帰ってくる気がない極楽とんぼのような長男と、強い意志を持って孫2人を連れて帰ってくる妹夫婦、どちらが頼りになるかどうかはオリックス・バファローズの今季の順位よりも明らかだ。とんとん拍子に話は進み、俺も微力ではあるがその手伝いをした。父親が倒れて以来頻繁に実家に帰っていた俺だが、これで少しは落ち着くだろうとほのかに期待した。
「あの子ら、本当に帰ってくるの?」
引っ越しの10日ほど前、母親は衝撃的な電話をかけてきた。あまりにも本末転倒なことを言ってくるので、俺は最初何を言われてるのかよくわからなかった。冗談かとも思ったが、聞き取りを続けているうちにそうではないことがわかった。聞くと、やっぱり帰ってきてほしくない、ということらしい。いや、それは待て、どういうことだ?何が気に食わないんだ?理由を聞くも、判然としない。仕方がないので、妹夫婦が帰ってくるメリットをもう一度一から説き、引っ越しの手続き、孫の学校等の手続きももう終わってるのだから今さら後戻りはできないことを説明すると、しぶしぶではあるが納得したようだった。昔から突拍子もないことを言い出す母親ではあったが、ここまで不合理なことを言い出すことはなかった。父親の病気等で一時的に調子がおかしいのだろうかと自分を納得させたが、一抹の不安は拭えなかった。
悪い予感は必ず当たるのがこの世のセオリーである。不安は正しかったことが数か月後にわかった。妹からのヘルプメールは一度来ると堰を切ったように長文で何度も送られてきた。その内容を総合すると、端的に言って母親は頭がおかしくなっていた。朝言ったことと真逆のことを夜に言ってきたり、前の日と全然違う指示を出したり、妹や妹の旦那(超いい奴)に対してものを投げつけたり罵声を浴びせたりと酷いものであった。このままでは地元を離れるかも、と妹が示唆していたのも頷ける内容であった。確かに妹夫婦は実家の事業が初めてだったこともあり、至らない点も多かった。意識が高くて現状と合わない面もあった。しかし、聞いてる限りの方向性としては概ね合理的だったし、その点は父親も同意見だった。実の母親から罵倒されるようなひどい仕事をしているわけではない。
ただ、一方の意見だけを鵜呑みにしてはいけないということを度重なる対メンヘラ戦争において俺は学んでいる。母親に電話をして、率直に話を聞いてみた。最初はいろいろとはぐらかしていた母親だったが、粘り強く聞いていくと、妹からの訴えはほぼ事実であった。母親は半笑いでまあそれくらいのことという態度を崩さなかったので、かっとした俺は母親を怒鳴りつけた。おそらく人生で初めてのことだっただろう。息子のあまりの剣幕に母親は慄き、それからも言い訳を連ねていたが、最後には本心を言った。「家を守りたかった」ということだった。しかし、それを聞いて俺には余計に訳が分からなくなった。妹夫婦と仲良くやっていくことが家を守ることだろうと言ったが、そうじゃない、家を守りたいんだと全く話にならない。理屈で話しても全く要領を得ないので、最終的にはもう一度怒鳴り散らし、態度を改めることを約束させた。
あれから約1年が過ぎ、そこからは火種を抱え、時折発火してはいるが、小康状態を保っている。最初は母親の認知症を疑ったのだが、それ以降の言動を見ているとそういうわけでもないようである。あの頃のことを思い出してみると、母親は何かに取り憑かれたようだった。確かに実家の環境の激変によるプレッシャーが彼女をおかしくしたのだろう。彼らの人生にとっては最近なかったくらいの大きな負のイベントだったし、それでおかしくなるのはある程度やむを得ないだろう。
しかし、それ以上にきつかったのは、母親の頭が確実に悪くなっていることだった。母親は65歳くらいだが、明確に10年前よりも、さらに言えば5年前よりも合理的な思考をすることが難しくなっていた。普通ならゆるやかにそれが明らかになっていくのだが、父親の病気という大きな出来事があって判断しなければいけないことが増えたために急速にそれが露になってしまった。また、父親も病気をしてからは別人のようにキレがなくなってしまった。これは不可逆的なもので、これからまた彼らが以前のような合理的な思考を取り戻すことはできないだろう。常に現時点がピーク、ということになる。
わかってはいたことがだが、思い知った。親は頭が悪くなる。これからもっと悪くなっていく。今回はなんとか乗り切れた。もしかしたら乗り切れてないのかもしれない。母親はやっぱりたまにとんちんかんなことを言い出してるし、病気をした父親は退職金をわけのわからない買い物に使っている。これからは物理的に援助もするし、妹夫婦と相談してできる準備はいまのうちにしておくつもりだ。しかし、もう頭が完璧にクリアな両親との普通の会話というものが何回できるかわからない。少なくとも、前のようなリズムで行うことは不可能だ。親は頭が悪くなる。これからもっと悪くなっていく。口を開くたびにネジが何本も外れていくような会話を親とするたびに、俺は何年も実家を軽視していたことの罰を受けているような気がするのだ。
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