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2022/02/17 感想について

「感想」をもらうことがある。

私はだいたい十五年前、携帯小説が全盛期だった頃からこまごまとお話を綴り続けている。書いてきたお話について、ここが良かっただとか、こう思っただとかの言葉をままいただく。

私は感想があってもなくてもそこまで執筆にムラが出ない方だと思う。感想は感想、書きたいものは書きたいもので、反応がそのまま創作意欲に繋がったりすることはあまりない。

それでも、感想はもらえると嬉しい。

読んでくれた人、いたんだなーと同時に、私がせっせと考えたことを誰かが拾ってくれた感覚がある。

自分がされて嬉しいことなのだから、本当は私も人へ積極的に感想を送ればいい。ただ、どうも感想を書くことが苦手だ。レビューやエッセイなどもそうだけど、こういったことを書くとき実は結構苦戦してしまう。ちゃんと書くぞ、というときは事前に参考書を一読してから書いていたりする。

私は、自分が感じたことを相手に伝わるよう意識して書くということが苦手なのかもしれない。

「感想を書く」ということについては、ツイッター等でもよく論議を見かける。

「感想は書き手の原動力になるから、送れば推し作家が長く活動してくれる!」
「感想に語彙力は求めていないから、『良かった』だけでも嬉しい」

このような意見が目に入るし、私も発言内容自体には頷ける。

ただ、本当のところ……、求めているのでは?

語彙力とはまた違うのだけれど、なにかこう、「読んでくれた実感」を……。

これは私の話になるのだけれど、文章量的には短くても、記憶に残る感想というのはある。

「自分もなにか書きたくなった」というものだ。

私が強欲のにぼしだから、書き手が増えた事実を喜んでいるのだろうと思っていた。しかし、これ以外にも似たような感情を抱くものがある。

それが、「衝動のまま書いてしまいました」系のコメント。

文章的には支離滅裂なのかもしれないけれど、すごく一生懸命これを送ってくれたんだな……というのが伝わってくると、頭の片隅にずっと残る。

己の信条として、感想に貴賎なし、どれもなにかのために思考を砕いて書いてくれたものなので、等しく価値のある、優劣はないものと思うようにしている。

ただ、やっぱり記憶に残りやすいものはどうしてもあり、「あの感想をくれた人は元気にやっているのかな……」という感情を抱きやすいのは、こういう類の感想だ。

で、これは喜ばせるためにそういうことを言うといい、なんていうありがた〜いアドバイスの話ではない。私はむしろ人の気持ちを汲み取ることが苦手なので、助言を求めるべき人間ではないぞ。

主張したいのは、私にとって「感想」というのは、自分を褒めてもらうツールなのではなく、それを読んでくれた人が「なにかを受け取ってくれたか」をはかるツールなのかもしれないということだ。

「書きたくなった」も、「衝動的に送った」も、読んだあとに行動が生じている。どちらも、書いたものに対してその人なりに「なにかを受け取ってくれた」からだというのがわかりやすい感想なのだ。

もしかしたら私は、自分が書いた作品の話ではなく、読んでくれた人の話を聞きたいのかもしれない……。さらに出来れば、自分が相手に影響を与えた上での話という、なんとも自分勝手な願望だ。

読んでくれた人の人生にすこしでも彩りを加えられれば、それが一番嬉しいってことなのかな。

今日は以上。というか私も感想、書こう。自分が感じたことを素直に伝えられるようになりたいですね。

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