2022/08/07 我が為に体重計に乗る
ところで、私は2021年の冬からダイエットをしており、今もまだほそぼそと続けている。
服のサイズに困ってはいないし、ほっそりはしていないが特段太っているわけでもないという、中肉中背くらいにはなっているのだが、それはそれとしてもうすこし細身になりたい気持ちはある。
その気持ちの元になっているのは他でもない自分のためだ。最初は「健康」だったが、今は健康を維持しつつ、「服を綺麗に着たい」の気持ちで取り組んでいる。痩せ過ぎたら当初の目的であった健康が危ぶまれるので程々にではあるが、それでも、スタイルが良くなりたい気持ちは捨てきれずせっせと筋トレをして、一駅分多く歩いたりしている。
こうしたことをしているとき、自分は本当に他者由来では動くことができないなと実感する。他者になにかを言われたところで動かざること山の如しなのだ。
自分がそうなので、他人もそうなのだと思い込んでいたのだが案外違うらしい。
たとえば私の妹は一度大幅なダイエットに成功したことがあったのだが、そのときの原動力は「バカにしてきた周囲を見返したい」の一心だった。
また、私が痩せたときに友人から真っ先に尋ねられたのが恋人の有無だった。付き合っている相手がいるから外見が変化したのだと考えられたようだが、当然そのような存在はいない。今でもやっぱり関心が薄く、今後も誰かと寄り添う自分はあまり想像出来ていない。
これらをルッキズムの話として悲しく思うかというと、そういうわけでもない。そもそも外見は、自分だけの意思で認識するにはすこし手間のかかるものだ。鏡やカメラを通して自覚する。さらに絶対評価というよりは相対評価がそこに潜んでいる気がする。周囲の様子やかけられる声で判断される可能性が高い。だから、外見の変化が他者由来によるものであるという考え方はわりと自然だ。
ただ、私は……私はね?
私は他人……どうでもよくて……。
自分が……楽しいから……やってる……本当にそれだけです。
誰かのために見た目を良くしてどうする?と本気で思ってしまう。中身で判断しろとは言わないが(私は中身がろくな人間でもないのでむしろ困る)、かといって見た目が私のすべてかというとそんなことは絶対にない!
見た目はある種の表現だ。私自身の価値観で、これを発表したい!こういう姿があったら良い!という気持ちでせっせとダイエットをしたり、髪型をいじったり、メイクしたりを繰り返している。
そこにあるのはどこまでも自分由来のパワーだ。自分が良いと思ってる、自分がそれに取り組むことを楽しんでいるからやっと動くことが出来る。
頑固といえば頑固で、ある意味これも生きづらさや周囲との乖離に繋がっている気もするが、幸い私は人との巡り合わせだけは豪運で乗り切っているので今のところは大丈夫だ。自分がそうしたいと思うときだけ動く、というスタイルでなんとかなっている。
しかし、この「見た目を良くしようキャンペーン」というか、マイブームもいつまで続くかはわからない。飽きたらまたモサ……とした感じに一気に戻ることでしょう。そのときはまた別のことに夢中になっていると思う。
今日は以上。明日もあるしはやく寝よ〜っと。
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