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体幹トレーニング(仮)

バスに乗っているとき、私が座っている椅子の隣でつり革にも手すりにもつかまらずに立っている人がいた。
しかも進行方向に背を向けて。
そのバスに乗っている人全員が思う、絶対にこける。
バスは右左折を繰り返し停車と発車を繰り返す、当たり前だ。
その度に全身に力を入れてバランスをとっているのがわかる。

まるでどこかの漫才を目の前にしているようだった。
そこまで揺さぶられるなら手すりを使ってくれ、と手元のスマホを操作しながら脳内は隣の動き続ける人に思考を向ける。
距離が近い私が思うのは、その人がバランスを崩して倒れでもしたら怪我をする、なんてことではなく、こちら側に倒れてこられたらどうしよう、ということただそれだけだ。

わたしはいつもそう。

わたしに影響が無ければその人の行動に文句は抱かない。
ここでの”わたし”とは、私と共にその人によって影響を受ける環境に居合わせる人を含める。

例えば、書店で本を立ち読みしながらそこそこの声で音読している人がいた。
その周りにいた人はイヤホンをしている人が多く誰も気に留めている様子はなかった。
まあそんな人もいるだろう、そのくらいしか私も思わなかった。

話を戻して、バスの中ではそうもいかない。
手すりを使わない人の転倒に巻き込まれれば私だって怪我をするかもしれない。
勝手に開催している体幹トレーニング(仮)を続けるその人に苛立ちが募ってきたころ、思っていたことが起きる。

バスの運転手が強めのブレーキを踏んだ。
案の定対応できるはずもなくその人は大きくのけぞり慌てて座席についている手すりを掴んだ。
バスに乗り合わせた人々の視界にはもちろん入っているものの、誰も何も発しなかった。
そりゃそうなるだろ、きっと内心こう思っていただろう。
ギリギリこけることは無かったものの、それだけの大きな動きをしたのだから多少恥ずかしさを感じたのだろう。
それまでとは別人のようにつり革を持ち、進行方向を向いて静かに立ち尽くしていた。
それから私の心は穏やかだ。安心して外の景色を見ることができる。音楽にもしっかり耳を傾けることができる。

こんな場面に居合わせた時、どう行動するのが最適なのだろうか。
今回のわたしのように、ただ見守るのか、危険を予測して声をかけるのか。
程度や相手にもよるだろうが、相手が実際に経験しないとまた別の場所で同じことをやるかもしれないと考えたら、今回は大きな怪我も起きなかったため良かったのだろうか、と考える。

きっと正義感のある人は声をかけたり、万が一その人が危険な状況になった時に助けられるような準備をするんだろう。

わたしは多分そこまで余裕を持っていないし、なんせ”わたし”に悪影響が及ばないのであれば見守ることしかできないんだろう。


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