先週は生活リズムを崩してしまっていた。 きっかけは水曜、下の子ども(10ヶ月)が一晩に3回夜泣きした。 流石に堪えた。 様々な要因があると思うけど、我が家では何となく傾向を掴めた気がするので記載しておこうと思う。 我が家の夜泣きの原因 我が子が夜泣きした際はミルクをあげることで落ち着いて眠りにつく。 つまりは空腹なのだ。 それについて一度教訓がある。 ある日の晩に下の子どもの好きなメニューばかり並び、 「こんなに食べれるの?」と言うくらい食べたのだ。 なんとびっくり、そ
仕事などが理由で人生が狂ってしまう事例が後を絶たない。 私もそこまで深刻ではないが似たような経験をしたことがあるので、自分なりの考えを書いてみる。 原因:「レールの上」が自分を追い込む いい学校に入り、いい大学に行き、大きな会社に入り退職まで勤める中で結婚し子どもを育て、家を買い…と言うレールの上を歩く価値観。 私もご多分に漏れずそんな価値観でぬくぬくと生きてきました。 しかし、時は大学院。 配属された研究室は、毎年1人は耐えられずドロップアウトするような環境。その中で
自分が大人になりきれてない、と思う点として、 清濁合わせ呑める心の広さが足りないなぁと思うことがある。 世の中は綺麗事ばかりではない 前提として、世の中は綺麗事で動いていない。 非合理的な理由(個人的感情、組織的対立、世論)で良い案が潰れていく例など星の数ほどある。 かつてのガリレオの地動説、センメルヴェイスの産褥熱の考察などは正しい理論であったが、当時は反発され不遇な扱いを受けている。 事の大小はあれど、今、まさに、この世界、この瞬間でも同じことが起こっている。 脳は
今まで早起きする人間では無かったのですが、最近は21時寝5時起きしてます。全く参考にならない早寝早起きスタイルへの変化例を書いておきます。 前提:普通の生活スタイル ギリギリに起きて会社に行き、帰って家事育児をして夜はスマホを触る生活をしてました。 子どもが寝静まった後が自分たちの時間…という極々一般的な生活をしていました。 きっかけ:単身赴任による生活激変と決意 年単位ではありませんが、単身赴任を命じられました。 これを機にやりたいことやるぜ!と思った私は、 平日
子育てするようになってから、 余力を持つことの重要性を身にしみて感じている。 比較的良い意味でいうと、 初めてハイハイした、立った、前転できるようになった、名前が書けるようになった、100点が取れた等、何か新しいことができるようになった際、 親が家事などに忙殺されていたら喜びが半減してしまう。 悪い意味でいうと、 突発的な病気で会社を休む必要が出てきたり、家事の間に相手して〜と言ってきたり、外出先で駄々こねたり… 余力が無かったら、親としてはストレスを溜めてしまうだろう。
よく話に聞く「沖縄に行くと時間がゆったり流れていて〜」と言う言葉。 なぜ沖縄だけがそうなのか、疑問に感じたことはないだろうか? その理由は、「おそらく四季の感覚が薄いから」だと思っている。 多くの人はピンとこないと思う。 なぜ四季がないと時間にルーズになってしまうのか? そんな興味をそそられた人は、こちらの動画を見て欲しい。 気候によって、時間の概念が希薄になりやすい。 私も沖縄でゆっくりしたいなぁ…
単身赴任を命じられて、しばらくの間一人暮らししていました。 まぁ物は言いようですが、良かったことと悪かったことがあります。 悪かったこと:何のために働いているのか 良かったこと:家事スキル育成 何のために働いているのか 当たり前なんですが「家族のために働いている」と感じました。 小さな子どもを残して単身赴任してはいけません。 妻子に迷惑をかけるばかりでなく、 帰省のたびに疲弊し、挙句赴任先に帰る前に「行かないで」と子どもに泣かれた日には… 子どもたちも余裕のない母親を
何となく、所属部署をそう感じている。 他部署や新人若手も薄々、(この部署って…) と感じているフシがある。 これらは言語化できないので心の中で終わっている。 忸怩たる思いである。 世界は言語化できないことに対して評価をしない。 という残酷な現実を前に今日も被害者を生み出し続けている。 今回は悪い意味だが、いい意味でも言語化できないモヤモヤがある。 こういう今の自分のモヤモヤを言語化するきっかけづくり、或いは能力養成のためにNoteを始めた。 この不幸を良いきっかけに変え
SNSのROM専という世界一無駄なことに時間を費やしていた時代、 「正当な評価を受けてない」という類の書き込みをよく見かけた。 一体、何がそうさせているのだろう? それは価値観の違いによるものだと思う。 価値観って曖昧な表現だったので、 私の足りない頭でもう少し具体化できないかなぁ考えていたのだが、 おそらく2点に集約されているのではないか、と結論づけた。 時間軸の相違 一つ目は時間軸の相違である。 例えばある仕事を依頼したときに上司は3ヶ月を想定して仕事を与えたが、
と、思うことがある。 Teams会議をする際の議事録作成で、Microsoft Copilotが超有能らしい。 このYoutubeを見る限り、かなり画期的だと感じた。 もう議事録の"叩き台"を若手に任せる必要ないじゃんコレ。 議事録は最若手が作る風習が日本にはあると思う。 旧石器時代の人間はかく述べることが想定される。 「業務を理解するために議事録を書かせるんだよ!」 →この技術を使う方がもっと理解が深まると思いますが… 「これがアウトプットの練習になるんだよ!」 →議事
自分に対する戒めとして書き残します。 世の中には完璧な人なんていません。 完璧だと思ったら、それは間違いなく脳内補正がかかっています。 狭い視野から抜け出し、見識を広げましょう。 世の中の常識が通用しないことがあります。 常識の中だけで生きている場合は、その枠からはみ出る人を毛嫌いするようになるでしょう。 出る杭を打つクソ野郎になる前に、見識を広げましょう。 世の中には自分に向いていない環境があります。 99%の他人が輝く環境でも、自分は輝けない環境であることもあります
Noteを書き出してから「日本語って難しいよね」って思うようになった。 これはおそらく読み手から書き手へのシフトが起きたからだと思う。 読み手のとき: 「日本語って超便利!」と思っていた。 普段何気なく使っている日本語だが、その使い方によって与えるイメージが異なるという不思議な性質を持つからだ。 例えば、次の言葉があるとしよう。 ・意味が分からないんだからっ!! ・意味不明… ・イミガワカリマセーン 読み物に触れている人なら大体状況が掴めるのではないだろうか? このよ
病気が治り、復活しました。 ところで、 あの人には何の世界が見えているのだろう、と思ったことありませんか? ・身近に関係あるところで言うと、子ども。 ・仕事に関係あるところで言うと、上司や部下、経営幹部。 ・世界に関係あるところで言うと、イーロンマスクとか。 この例から、私の中では何となく 「本質的に他人とは分かり合えないのでは…?」と思うようになった。 でもそれは決して「分かりあうこと」を諦めるということではない。 むしろ、見えている世界、イメージを共有することは、
なんか、体調悪いです。 色々な拡大解釈に引用されているこの言葉ですが、 本日、身に染みて感じております。 あまりこういうときの自分の対処法を知らないんですよね…ロキソニン飲むくらいかなぁ? 体調悪いなと思ったらこれで大丈夫!というルーティンを作る必要性を感じております。(同様にストレス過多の時も作りたい) 昔の自分は明日の分の仕事や家事、買い出しを積極的に行い疲れ果てて余計にダウン…なんてことをやってました。 やりかけましたが、止めました。 うん、明日に備えて寝ます。
毎日更新しようと思ってたけど、早速途切れた。 高尚な理由なんてなく、ただ怠惰を貪っていただけだ。 さて、世の中には「完璧を求めすぎるな」という言葉がある。 何事も完璧な方がいいに決まっているのに、である。 これについて考えてみたいのだが、 そもそも完璧を求める対象として、「自分」と「他人」がいる。 自分に完璧を求める、というのは学生時代に経験がある人も多いと思うが、 現実とのギャップを前に大きなストレスを受けるものである。 一方でその完璧な理想像を必死に追いかけて登り詰
よく人生の諸先輩方が言う「一瞬で時間が流れる」という言葉。 確かに、学生時代の時間の流れより、社会人時代の時間の流れのほうが早い気がする。 これを調べると刺激が少ないからだそうだ。 長い目で見ると分かりにくいが、日常に置き換えると確かに納得できる。 ・好きなことに集中した時間はあっという間に過ぎる ・待たされるなど、ストレスが掛かっている時間は長く感じる 防衛本能上、人間の脳は強いストレスを感じたことを忘れない仕組みになっているので、記憶が濃密なこととストレスって確かに密