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「してあげる」という感覚の落とし穴

利他的、という概念はとても尊ばれます。
そのことにまったく異論はありません。

しかし、そこには人間心理の大きな落とし穴があることも、
我々は把握しておく必要があります。

それは「してあげている」という感覚に陥ってしまうことです。
いくら他人のためにすることでも、
「してあげている」という感覚を持ってしまうと
それは自分の心の中でいつしか魔物に変容してしまい、
ひいては自分自身を苦しめることになってしまうのです。



例えば電車の中でお年寄りに席を譲るというシーンを想像してください

「どうぞ」と言って席を立った時に、
「あ、大丈夫ですよ、すぐに降りるので」のような
遠慮の言葉が返ってくることは想像できます。

けれど、「私ももう降りるので」などと、もう一押しの言葉を言うと、
だいたいは「そうですか?では」という展開になります。

けれどときには、まったく無言で座られるとか、
「私は人に席を譲ってもらうほど落ちぶれてません」的な
態度をとられるなど、理不尽な思いをすることもあります。

そういうときに、人は腹が立つものです。

もちろんその原因は相手の態度が人としてなっていないからですね。
なので、その立腹はいた仕方ない部分もあると思います。

では、こんな状況を考えてみてください。
これは東北震災の復興現場で実際にたくさん起きたことです。

地震が発生し、津波が押し寄せ、たくさんの家屋が倒れた。
自分にも何かできることはないかと考えた善意ある人が、
現場に乗り込んで瓦礫の撤去などを手伝いました。

当然、地元の人々に感謝されます。

助けに行った人も、自分が他者の役に立てたことにとても満足がいきます
中には、そのまま被災地に止まって、
町の復興そのものに携わっていく人もいました。
そういう人は、自分が元々住んでいた場所を離れて、
わざわざ被災地に行っているわけですね。

ですから、やはり「何かをしてあげたい」という利他の精神に溢れている。
しかし、災害の第一波が過ぎ、復興のフェーズに入ってくると、
被災した人々のマインドもだんだん変化してくるんですね。

簡単に言えば、「被災した可哀想な人」という立場から
脱却したいと考えるわけです。よく考えたら当たり前ですよね。
地震が来る前までは、被災者ではなかったわけですから。

しかし、助けている方側は、
彼らを被災者という枠にはめようとしてしまう。
なぜなら、そうでないと自分の立場、
つまり「助けてあげている人」というアイデンティティが
なくなってしまうからです。

もちろん全員がそうではありませんが、そう言う人はたくさんいて、
それは震災から3~4年目くらいのときに
とても問題になっていたんですね。

そういう人が、自分の心のよりどころを失ってしまっている、
という問題です。

施してあげる側、施される側。
助けてあげる側と、助けられる側。
してあげる側と、してもらう側。

こういう構図は、してあげる側にとっての満足感と、
してもらう側の感謝が釣り合っている間は大丈夫なのですが、
してもらう側のマインドが変化した時、崩れ去ることになるんですね。

でも、そこに善意や感謝という、人の良い面が関わっているだけに、
取り扱いがとっても難しいのです。

あまり公になっていませんが、
してあげる側の人がメンタルのバランスを崩してしまうケースや、
そのことが原因となって地元の人々とトラブルになるケースもあったようです。

「こんなにしてあげているのに、感謝されない」そんな感情でしょうか。

そのような人の心の在り方の問題は、実は時間が解決しました。
具体的に言うと、被災地に飛び込んだ人々が、
苦しみの中から学びを得ることで次のステップに進んだのです。

それは、我々は「してあげているのだと勘違いしていた」という気づきです。

してあげる側も、してもらう側も、本当はフラットな関係なんですよね。
偶然そのとき担当する役割があっただけで、
それはときと場合によって変わるものなのです。

してあげていると思っていたけど、実はたくさんのことを得ていた。
そうすると、相手への感謝の気持ちが持てるようになったと言うのですよね。

むしろ、してあげる側だった人は、自分が勘違いしていたと気づいたところから
地元の人々との本当の心の交流や人間関係の構築が始まって、
そこからフラットで深い絆へと進んでいくことが多かったという流れがあります。

これらは震災から10年の時が過ぎたことで判明したことで、
もちろん20年目には20年目の気づきがあるのでしょうね。



今日、言いたかったことは、
「してあげている」という感覚は、とても危険で、
しかしまた、とても気付きにくいものだ、ということです。

独善的という言葉がありますが、
これは独善真っ最中の人の耳には中々聞こえない言葉なのです。

もちろん、私自身もそうだと思っています。
だからこそ、その危険性を知っておく必要があるんですね。
独善的でない人は、この世にはほとんどいないのではないかな、と思います。

でも、独善的であることは、やはりマイナスになるので
気づいたら止める方向に自制すべきだと思います。

なぜなら、最終的に苦しむのは自分自身だからです。

人に自分の親切心が届かないと歯痒いとき、
それは善意のマウントになっている可能性を疑いましょう。

「やってあげる」の押し付けは、言葉では上手に言い表せない、
処理しにくい不快な感情を相手に生じさせます。

そうなると、意地でもその施しは受けない!というような
非合理的な反発を生むことになります。

なぜなら、合理的に考えればその施しは受け入れた方がいいに決まっていると、
相手も心のどこかで気づいているからです。
でも、人間は非合理的な生き物であって、「気がすまない」という感情が
人の判断や行動を支配することが多いのですね。

もちろん施す側は理屈や合理性で攻めてきますから、
なぜ受け入れないのか、皆目理解できないわけです。

そんな不毛なことは人間社会では毎日繰り返されていますね。



このような心のすれ違いを防ぐには、
とにかく丁寧にやることしかないと私は思っています。

始めのうちは誤解されるものだ、ということも、
互いに理解しておく必要があります。

それぞれの感情が今どのようなフェーズにあるのかを
俯瞰して把握しておくのです。

そして、相手との関係はいつでもフラットなものなのだ、と意識しましょう。
例え正義感に満ち満ちていたとしても、押しつけた瞬間に変質します。

「私たちは、ひとりひとりの声に耳を傾けます。」

いちばんダメなフレーズです。
もうわかりますよね?
やってあげる感満載だからです。独善感1000%だからです。

言っている方は、おそらく自分が上から目線になっていることに、
気づいていないと思います。
なんなら自分の正義感に酔いしれて、気分が良くなっているかも知れないです。

でも、人の心は離れていきます。
それか、依存関係になります。

人というのはとても難しくて、いつだって「絶対の正解」はありません。
正解を求め出したらヤバい兆候だと思いましょう。

そして、より良い方向へと導こうと思ったとしても、
決して押し付けないことです。
それは結果的に「遠回り」になる可能性が飛躍的に高まるからです。

まずは、「人間の非合理性」を把握しましょう。
方法は簡単です。
自分を振り返ってみればいいだけですから。

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