内藤廣とオルテガ(の個人的解釈)

内藤廣とオルテガ、オルテガとウナムーノの関わり方が今一つ見えなかったので再度参考文献を読みながら解釈

■要約
・オルテガは1930年代に大衆が誕生し、啓蒙的個人が無責任で匿名的な個人となり、近代啓蒙思想は失敗する(した)と主張した。
・内藤廣は、この無責任で匿名的大衆に対して、意思を持った共同性が重要だとした。これを内藤廣は「新しい凡庸」と呼び、建築は共同性を作るまた持続させる道具のようなものだと主張している。
・この「新しい凡庸」は、柳宗理の「民藝」に近いのではないか。

■以下詳細
オルテガは、1930年代を(1930年代から見て)歴史上最も充実した時代であると同時に最も不安定な時代だとした。                 その理由をオルテガは下記の様に考えた。
19世紀の啓蒙思想は、理性により時代が常により良い方に進むことができると考えた。しかし、啓蒙思想が技術的進歩を継続させたまま、またその技術的進歩の恩恵により大衆を誕生させ、理性的個人を無責任な匿名者に変化させた。これによりヨーロッパは衰退していく途上の地域となっているので不安定である。

この問題に対して、オルテガは歴史上最も豊かな時代の恩恵を受けることは、権利でなく自らに対する要求と義務によって成り立つべきだとした。つまり、匿名的大衆は近代の理性を破壊するから、再度近代の理性ある個人として、近代をやり直そうと主張した。
ただし、このやり直しはプロテスタント的禁欲、勤勉、合理等に言い換えることができる理性だけではなく、ベルクソン等に代表される「生-理性」を含んでいる。(らしいけどそこまで読み切れていない)。
ここに、ウナムーノの言っている「理性」で無いものとのつながりも見える。

これに対し、この匿名性や均質化こそが重要だと1920年代のニューヨークをベースに1978年に主張したのはコールハースだが、内藤廣は、この匿名性や均質性を否定的に凡庸と呼んでいる。                  コールハースは、モダニズムの中に作家性があることの矛盾を指摘し、匿名性こそ現代(1978年)であるとしてそれを積極的に利用した。しかしその究極はCCTVなのでけしてうまくはいっていない。このことから内藤廣は、この匿名性を否定的にとらえていると思われる。この否定的な意味での凡庸さの例として、プレファブの論理や無印良品を挙げている。

プレファブの論理は、成立が近代なので否定的意味での凡庸の概念に該当する部分が多い。しかし無印良品は、アノニマスという意味で否定的意味での凡庸さを含んでいるが、その原型は日本の道具より着想をえているという点でむしろ「新しい凡庸」の要素も含んでいると思われる。

そして否定的意味での凡庸さはすでに飽和しており、むしろ極小さな地域の中での凡庸性(かつそれ以外の地域にとっての凡庸でないもの)が重要だとしている。

この「凡庸性」は、内藤廣はオルテガの言う「共同性」の中から生まれるとし、建築はこの「共同性」を生み出す又は持続させるための「道具」のようなものだと内藤廣は主張している。(と思われる)
また、「共同性」を生み出す又は持続させる「道具」として、建築は適したものと考えている。(と思われる)
なお、集団ごとでの違いがあることが重要なのではなく、あくまで集団にとっての「共同性」を生み出すことが重要と考えている様である。
この「共同性」はある地域の他にも例えば家族という場合もあるとしている。これは、宮台真司の言っている世間とのつながりの考え方に近い。
これを内藤は「新しい凡庸」と言っている。

さらに、「新しい凡庸」の概念は柳宗理の言っている「民藝」(の落合陽一の解釈)に近い。柳宗理をウィキで調べたレベルだと、土木的なものから家具迄手掛けており、ここも内藤廣と近似している。

20240212:訂正
柳宗理は民藝運動の柳宗悦の息子なので違う。思想としては民藝を継承している。

思い付き
・民藝的スポーツはあるか。
 祭りとかの祝祭性のある運動かな。
・新しい凡庸はスポーツの規準にできるか。

参考等
・大衆の反逆  オルテガ・イ・ガセット
・建築の難問  内藤廣
・生の哲学   ウナムーノ
・落合陽一が民藝について話をしているyoutubeの動画色々
・宮台真司が世間について話をしているyoutubeの動画色々  
・ウィキペディア先生


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