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砂漠の赤信号

Noam Gur (2012) "Actions, Attitudes, and the Obligation to Obey the Law," 𝘛𝘩𝘦 𝘑𝘰𝘶𝘳𝘯𝘢𝘭 𝘰𝘧 𝘗𝘰𝘭𝘪𝘵𝘪𝘤𝘢𝘭 𝘗𝘩𝘪𝘭𝘰𝘴𝘰𝘱𝘩𝘺 21(3)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/jopp.12000
遵法義務論について、誰もいない砂漠の赤信号でどうかと問うもの。ヘッダーの画像はこちらから。

遵法義務というのはそのまま「法に従う義務」があるかどうかという話で、常識的にはもちろん「ある」と思われるだろう。しかし「なぜ?」と問われると案外難しい。この法哲学上の議論一般について見通しのよい整理を与えるものとして、横浜竜也『遵法責務論』(弘文堂、2016年)がある。なお、「義務(duty)」と「責務(obligation)」の使い分けといった問題もあるのだが、ガーは区別しないというので本エントリでもそうする。


 Gur (2012) に戻ると、出されている例が興味深い。
誰もいない砂漠に信号があったとする。それを守る義務があるだろうか?

砂漠でなくても、ほとんど車が来ないような横断歩道で信号を守る義務はどれだけあるのか? という問いは身近でよいと思う。

そこでガーの回答がなかなかマッチョで面白い。いわく、そこで信号を守らないやつはそこだけでなく、他のところでも変な計算を勝手にやるバイアスを持ちがちなので、態度が悪い。そんなのが社会全体にはびこると、法制度全体に影響がありうるので、国家は国民の態度(=遵法精神)を善導しなければならない。すごいね。

態度というのは英語でいうと attitude で、通常は専門用語として使われるものだが、ここでは「傾向性(disposition)」つまり気質のようなものとして述べられている。なので、日本語の日常用語としての「態度」の語感とそれほどの違いはない。というとなんだか精神論みたいで、実際のところかなりそうだと思うが、一応は、信号を守らない(不遵守)という「行為」を単独で扱うのではなく、そこからの広がりを態度という言葉で問題化する意味がある

ガーは他にもいくつかの議論を検討している。たとえば、フェアプレイ論からの遵法義務正当化論というのがある。他の人が法律を守っていることによって社会の秩序が保たれているところで、自分だけ抜け駆けして法律を破るのは他人の行動にただ乗りしているからけしからん、という議論である。現実には砂漠の赤信号を無視したからといって実害はないだろうが、この議論は実害の有無を問題とせず、あくまで道徳問題として考えるところに特徴がある。この特徴は、実害の有無にかかわらず考えるべき規範の領域があると思うならば長所であるし、そんなものは無駄な論点を増やすだけだと思うならば短所である。ガーはできるだけ実証に開いていきたいようで、短所のほうを気にしている。

これに対するガーの解決法は、フェアプレイ論をインテグリティの問題として再構成することである。インテグリティというと、法哲学の文脈ではロナルド・ドゥオーキンの「インテグリティとしての法」が有名だが、これはある法体系の総体としてのインテグリティ(純一性、統合性、一貫性……)を問うものであって、ガーの議論とは違う。

ガーはこれを個人内の道徳判断の整合性の問題としている。ある場面では法律を守り、別の場面では破るというのでは個人内の道徳的判断の整合性があやういことになるという。フェアプレイ論というより、最初から個人内の道徳的整合性の問題とすればよさそうに思うが、これはこれで魅力的に思う人もいるかもしれない。もっとも、砂漠の赤信号は無意味だから守らないが、その他の法律は守らないと罰を食らうので守るのだ、とかいった言い訳はいくらでもできるだろう。もちろんそれこそ大切なことで、そこでとにかく「理由を出させる」という意味がある。実際に尋ねられるかどうかは別として、うまく理由を言えないような行動をすることはやはり、たいていの人にとっては気持ち悪いことなのである。とはいっても、理由もへったくれもなく「あれはあれ、これはこれ」という態度の悪い人にはあまり批判にならない。だから、結局は態度の問題になる。

ガーによれば、砂漠の信号無視とかは、そうやって勝手に計算することが態度にしみついて、生活全般で変な判断をする非合理バイアスにつながるという。ガーはこれには心理学的根拠があると述べているが、私は、いくらなんでも話を広げすぎではないかと思う。あげられている心理学文献も数十年前のものと古いので、信用できそうになく思った。しかし、

というご指摘もいただき、このあたりはあまり簡単に判断してはいけないのかもしれない。

大きい議論状況に戻ると、遵法義務否定論の代表者はジョセフ・ラズという法哲学者である。彼の「権威のサービス概念」によるならば、法は従う者が便利だと思ったら従えばよいし、そうでなければ従う必要はない。この種類の議論はいろいろなバリエーションがあるが、「法」に余計な道徳を混入させたくない法実証主義者や法リアリストたちは、多かれ少なかれ共有する発想といっていいかもしれない。

しかし、これは一般人の感覚とはどうみても折り合いが悪い。一般的には「法」は当然、守るべきものだろう。そういう素朴信念を無視した議論はどうにも空論めいたところがあるだろうし、一応はしっかり向き合わないといけないのではないか。だからガーは「態度」という、一見したところあやしげな概念を持ち出す。だがこれはこれで、本当にそんな態度につながるのか? もしかしたらそういうこともあるかもしれないが、だとするとそれは法の実効性とかに深刻な影響を与えるようなものなのか? という問いにつながっていく。私としてはそうやって実証に開こうとしていくこと自体は好ましいやり方だと思う。

しかしガーの場合、結局のところ法を守る義務の根拠は、みんなが法を守ることが社会にとって必要だからだ、という種類の肯定論になっているのも確かである。するとまた、そこで規範的要素を考える必要はどこまであるのか、という大きな問いに戻っていく。まあ、そう簡単に決着のつくような話ではない。

他方、

こんなふうに、「法をただ守るのではなく、批判的に見る人」も一定数存在することは、今後の法の発展にとって大事なことである。もちろん、そんな人ばかりでも困るので、その人数はどれぐらいならばよいのか? という問いが新しく立てられることになる。ただこれだけだと問いが大きすぎて検証しようがないので、もっと問題ごとに適切なサイズで考えないといけないだろう。おそらく、商取引の具体的な類型など、個々のコンプライアンス行動と全体としての制度的パフォーマンスの関係がある程度は検証可能な領域もあるので、そういったところから考えるのもよさそうだ。なので、この議論の応用領域としてはそのへんのビジネス法/倫理あたりでしょうか。

Noam Gur 先生はこんな人。近著に Legal Directives and Practical Reasons, Oxford U. P., 2018 がある。


あと、中国の砂漠にはラクダ用の信号があるらしい。


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