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「良い物をより安く」という偽善

良いもの、あるいはサービスをより安く。

自分で値付けする立場になると、これがいかに危険なことかがよく分かる。

昔、フリーランスの知人が仕事を断ったことがある。

某有名アーティストから直々のご指名だという。当然キャリアになるし、新たな人脈も開拓できる。まず確実にいい仕事と言える。

ただ、ギャラが安かった。間に入ったプロデューサーがその知人を軽くみて、安くふっかけてきたのだ。先方としても「キャリアになるんだから安くても乗ってくるだろう」というおごりがあったのだろう。

知人はその仕事を断った。断腸の思いだったらしい。

キャリアやギャラの相場は自ら作り上げていくものだ。それには時間と手間、そして信頼の蓄積が必要だ。それを自らぶち壊しにしかねない。そう判断したのだ。

その話を聞いた時、「うわー、もったいねー」と思うと同時に、彼の職業人としての意地に感心した。

良いものを安く提供する。それは正しい消費者マインドだ。マーケットはだいたいそういう方向性で動く。

でも提供する側にとって「良いもの」と「価格」は矛盾する。例外はあれど良いものを提供しようとしたら、基本的に価格は上がる。

で、消費者が良し悪しが分からなくなれば、あるいはどれも似たり寄ったりになれば、比較基準は価格だけになる。それで値下げ攻勢合戦というチキンレースに至る。

すると妙な逆転現象が起こる。

良し悪しが価格に反映されるはずが、価格によって良し悪しが判断されるようになるのだ。

値段が安いと安物、値段が高いものはいいモノ、という破綻した判断がされるようになる。ものの良し悪しがわからないんだから仕方ない。

そういう価値観がまかり通る中で、値下げをするのは非常に危険だ。

「安物」というレッテルを貼られるからだ。

それを分からず、善意や謙遜のつもりで安くしたり、無償で提供してしまう人がいる。それで本人は満足するかも知れないけど、提供したものの「価値」を下げてしまうことになる。

「良いもの」と思って提供したものの価値を、自らブチ壊してしまうのだ。

そして受け取った側もそれを粗末に扱う。安物なのだから、仕方ない。

だから自分が「良い」と思うものには、それなりの価格をつけた方が良い。

安くしないと買わない人は相手しなくていい。その価格で買いたい人を相手すれば良い。その方がお互いにメリットがある。

あと覚悟と度胸が育つ。それなりの価格をつけようとすると、それ相応の覚悟がいる。その価格に見合うモノ、サービスを提供しようと励むようになる。それは自己研鑽の糧だ。

価格相応では足りない。そこそこの値付けでもお得感を出すには、価格の1.5倍くらいのメリットがなくてはならない。システマなら2000円のクラスで2000円分の智慧しか得られないなら、それはお得ではない。プラスマイナスゼロだからだ。少なくとも3,000円分の価値を出したい。差額が1,000円、できればもっと。それが世の中への還元となるのだ。

値下げとはそのハードルを自ら下げる行為ともなる。

それは自己研鑽を鈍化させる。その意味でも危険だ。

成長とは、自らの価値を上げ続けるということだ。

この貨幣制度の社会では、それは否応なく「価格」として表現される。

好むと好まざるにかかわらず、「需要」と「供給」によって成り立つ。

私個人はシステマの価値を高める立場だ。そうやって価値が上がり、それにみあった需要があれば、もっとシステマを深く学び、その智慧を世の中に還元することで生活できる人も増えるだろう。それで世の隅々にシステマの知恵が浸透し、人々の生きる助けとなれば良い。

こういう意図が理解されるのはおそらく10年以上先の話だろうけれども、あれこれ模索しながら、やれることを片っ端からやっていくほかない。

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